昨日の朝の朝日新聞の「天声人語」を読み、息子とのやりとりから我が身に置き換えてまた唸ったので、以下転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
朝日新聞「天声人語」(2013年4月25日)
話し上手に聞き上手、世の中には様々な「上手」がいる。変わったところをあげれば「叱られ上手」か。叱責(しっせき)や小言をうまく吸い取る。〈うつむいてしかられぶりのよい女房〉という古い川柳がある。火に油を注ぐような態度は、しないのが賢い▼「叱り上手」もいる。これも江戸の句に〈異見巧者(いけんごうしゃ)の蔵へ呼び込み〉とある。叱り上手は人前で面罵して恥をかかせたりはしない。蔵へ呼んで、人払いをして意見する。うちの課長もそうだったら――。ぼやく人もおいでだろうか▼もっとも昨今は、パワハラを恐れて上司が萎縮ぎみという。「鬼」と呼ばれる管理職は、もはや昭和が薫る骨董品(こっとうひん)らしい。原稿を破り捨てて「書き直し!」と怒鳴る鬼デスクも、新聞社では絶滅した模様である▼骨董品を弁護するなら、実に上手に「雷を落とす」人もいた。そんな上司は、ほめ上手でもあった。ほめるから、叱られて省(かえり)み、叱るから、ほめられて喜ぶ。太陽と雨で木が育つのに、どこか似ている▼先のアエラ誌によれば、「ほめる」と「叱る」の理想比は7対3から8対2の辺りらしい。太陽だけでは干からび、雨ばかりでは根が腐る。照って、降って。その塩梅(あんばい)と上手下手が人づくりを左右する▼さて、今月入社した新人諸氏も、勤めてひと月が近い。少し慣れたか、まだ緊張が解けないか。まわりで先輩風を吹かせている面々も、みな1年目があった。仕事は人に風格を与える。叱られ、ほめられ、一日一日、枝を伸ばしていってほしい。
(転載終了)※ ※ ※
つまるところ、「自分の」子供、だと思っているから上手く叱ったりほめたり出来ないのかな、と反省する。
夫には「いつも同じ手を使わずに、たまには自分の子だと思わないで接してみればいいんじゃないか。」と言われる。そう、これが他人(ひと)様であれば、ちょっとしたヨイショの言葉も無理なく口をついて出てくるし、まあこの人に言っても仕方ないと見切りをつければノーコメントでスルーも出来る。
もちろん仕事上一言叱らなければならないこともあるけれど、最近ではちょっとしたことでもいきなりパワハラ委員会に届け出ということもあるようで、辺りは戦々恐々としているのも事実らしい。けれど、どうでもいいと思っている奴には叱ったりしない。叱るのにはパワーが要る。どうしたらうまく伝わるか頭を絞るのだから。言うまでもなく感情に任せて怒るのと叱るのは全くの別物。ちゃんとしてほしい、やれば(あなたなら)出来るだろうから、と思っているからこそなのだけれど。
息子にはこうした思いがなかなか通じないのがやるせない。
試験前夜のこと、ようやく自室に入ったかと思えばリビングにやってきてスマホをチェックし、落ち着かずトイレに行ったり飲み物を取りに来たり。果ては早々に「もう終わった。」と入浴に向かう息子に「もう?じゃあ結果が楽しみね~」と言ったところ、いきなり「お母さんはモチベーターとしては無能だ。プレッシャーばっかり与えて一体どういうつもりだ。」と返された。そっか、私って無能なんだ~、と思う。
まあ、私は親に対してたとえそう思ったことがあっても口には出さなかったけれどなあ、と。
いつかも書いたけれど、自分が子どもをやっていた頃、親から7対3や8対2で「ほめ」られたり「叱ら」れたりすることは決してなかった。むしろその逆で、圧倒的に「叱ら」れる割合が高かった。だからこそ本当にごくたまに「ほめ」られると嬉しかったのだけれど。今や好々爺のようになった両親の「ほめ」と「叱り」の塩梅が上手だったのかどうかはわからない。
つくづく職場の人育てよりも子育ては難しい。プレッシャーを撥ね退けるメンタルが弱い、と自分で気付いているならば、もっとしたたかにしなやかになれないものか、と忸怩たる思いにため息をついてしまう私がいる。
※ ※ ※(転載開始)
朝日新聞「天声人語」(2013年4月25日)
話し上手に聞き上手、世の中には様々な「上手」がいる。変わったところをあげれば「叱られ上手」か。叱責(しっせき)や小言をうまく吸い取る。〈うつむいてしかられぶりのよい女房〉という古い川柳がある。火に油を注ぐような態度は、しないのが賢い▼「叱り上手」もいる。これも江戸の句に〈異見巧者(いけんごうしゃ)の蔵へ呼び込み〉とある。叱り上手は人前で面罵して恥をかかせたりはしない。蔵へ呼んで、人払いをして意見する。うちの課長もそうだったら――。ぼやく人もおいでだろうか▼もっとも昨今は、パワハラを恐れて上司が萎縮ぎみという。「鬼」と呼ばれる管理職は、もはや昭和が薫る骨董品(こっとうひん)らしい。原稿を破り捨てて「書き直し!」と怒鳴る鬼デスクも、新聞社では絶滅した模様である▼骨董品を弁護するなら、実に上手に「雷を落とす」人もいた。そんな上司は、ほめ上手でもあった。ほめるから、叱られて省(かえり)み、叱るから、ほめられて喜ぶ。太陽と雨で木が育つのに、どこか似ている▼先のアエラ誌によれば、「ほめる」と「叱る」の理想比は7対3から8対2の辺りらしい。太陽だけでは干からび、雨ばかりでは根が腐る。照って、降って。その塩梅(あんばい)と上手下手が人づくりを左右する▼さて、今月入社した新人諸氏も、勤めてひと月が近い。少し慣れたか、まだ緊張が解けないか。まわりで先輩風を吹かせている面々も、みな1年目があった。仕事は人に風格を与える。叱られ、ほめられ、一日一日、枝を伸ばしていってほしい。
(転載終了)※ ※ ※
つまるところ、「自分の」子供、だと思っているから上手く叱ったりほめたり出来ないのかな、と反省する。
夫には「いつも同じ手を使わずに、たまには自分の子だと思わないで接してみればいいんじゃないか。」と言われる。そう、これが他人(ひと)様であれば、ちょっとしたヨイショの言葉も無理なく口をついて出てくるし、まあこの人に言っても仕方ないと見切りをつければノーコメントでスルーも出来る。
もちろん仕事上一言叱らなければならないこともあるけれど、最近ではちょっとしたことでもいきなりパワハラ委員会に届け出ということもあるようで、辺りは戦々恐々としているのも事実らしい。けれど、どうでもいいと思っている奴には叱ったりしない。叱るのにはパワーが要る。どうしたらうまく伝わるか頭を絞るのだから。言うまでもなく感情に任せて怒るのと叱るのは全くの別物。ちゃんとしてほしい、やれば(あなたなら)出来るだろうから、と思っているからこそなのだけれど。
息子にはこうした思いがなかなか通じないのがやるせない。
試験前夜のこと、ようやく自室に入ったかと思えばリビングにやってきてスマホをチェックし、落ち着かずトイレに行ったり飲み物を取りに来たり。果ては早々に「もう終わった。」と入浴に向かう息子に「もう?じゃあ結果が楽しみね~」と言ったところ、いきなり「お母さんはモチベーターとしては無能だ。プレッシャーばっかり与えて一体どういうつもりだ。」と返された。そっか、私って無能なんだ~、と思う。
まあ、私は親に対してたとえそう思ったことがあっても口には出さなかったけれどなあ、と。
いつかも書いたけれど、自分が子どもをやっていた頃、親から7対3や8対2で「ほめ」られたり「叱ら」れたりすることは決してなかった。むしろその逆で、圧倒的に「叱ら」れる割合が高かった。だからこそ本当にごくたまに「ほめ」られると嬉しかったのだけれど。今や好々爺のようになった両親の「ほめ」と「叱り」の塩梅が上手だったのかどうかはわからない。
つくづく職場の人育てよりも子育ては難しい。プレッシャーを撥ね退けるメンタルが弱い、と自分で気付いているならば、もっとしたたかにしなやかになれないものか、と忸怩たる思いにため息をついてしまう私がいる。