これも何度かご紹介している毎日新聞の岡本左和子さんのコラム。最新号でこれまた頷いたので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
診察室のワルツ:/55 思い込みを防ぐ工夫を=岡本左和子(毎日新聞 2013年12月05日)
師走に入り、冬の味覚が楽しみな季節になりました。ところが最近、私はフグにアレルギーがあることが分かり、おいしいものを一ついただけなくなってしまいました。
病院にもさまざまなアレルギーを持つ患者が来ます。先日、講演先で「参った」という話を聞きました。Aさんは魚介類にアレルギーがあり、カルテに記載され、関係者全員に周知されていました。ところが、ある日、Aさんの夕食にエビが入っていました。Aさんが「食べられない」と申し出たところ、代わりの主菜はイカ。それも食べられませんでした。
調理担当者は「魚にアレルギーがある」と聞き、エビやイカは大丈夫だと思ったそうです。別の病院では、キウイとイチゴにアレルギーがある患者に誤ってキウイを出してしまい、謝罪の際に持っていった手土産がイチゴだったという、笑えないエピソードも聞きました。
患者のアレルギーについて聞いた最初の担当者から調理担当者に伝わる間に、「魚介類」が「魚」になり、「キウイとイチゴ」のイチゴが忘れられたのでしょう。担当の人それぞれが思い込み、お互いに確認をしなかったため、最終的に異なったメッセージに化けてしまったのです。伝言ゲームの恐ろしさといえます。
ゲームであれば笑ってすみますが、病院では医療事故につながりかねません。「ある薬剤を筋肉注射すべきなのに静脈注射をする」「消毒剤を点滴薬と思い込む」などは、実際に起こる可能性があるミスです。
人の記憶にとどまるのは、聞いたことの20%、見たことの30%、自分で言葉にするか書き留めると70%、聞いた内容を教えるか行動にすると90%−−とされます。ですから、診断や治療計画は必ず複数で伝える(患者は聴く)、その内容を書き留め、言い直してもらうなど、相手と確認をする工夫を、患者・家族もかかわる形で病院のシステムとして作ってほしいと思います。手術の説明など、一つのことを複数の人で同時に聞くことは、勘違いや聞き逃しを防ぎ、声にならない反対や不承知などのニュアンスを見逃さないことにもつながるため、思い込みの防止が期待できます。(おかもと・さわこ=奈良県立医大健康政策医学講座助教)
(転載終了)※ ※ ※
12月、クリスマスに忘年会・・・と美味しいものを沢山頂けるシーズン。食物アレルギーがあるとそれは大変だろうな、と思う。幸い我が家では誰もそういう人がいないけれど、学校給食でのアナフィラキシーによる死亡事故には胸が痛んだ。
息子が小学生の頃、アレルギーで毎日お母様の手作りお弁当を持ってきていたお友達がいた。命にかかわることとはいえ、自分だけが常に他のお友達と同じものが食べられない、外食も難しい、お友達の家に遊びに行ってもおやつも頂けない、というストレスは小さな子供にとって計り知れないものだったろうし、お母様の日々のご苦労もどれほどのものだったのだろう、と推察する。翻って、何でも美味しく安心して頂ける体であることに改めて感謝しなければならない、とも思う。
そして“記憶”の部分でもなるほどな、と思う。私が学生だった頃、覚えるためには、音読し、ひたすら書いて、テープを聞いたり替え歌にしたり・・・と、いわば五感に働きかけながら努力した。もちろん、時代が違うといえばそうかもしれないけれど、息子や今の学生さんたちを見ていると、メモを取ることをあまりしない。授業をしっかり聴いたとしても歩留まりは2割、メモをとらずに黒板の板書を見て3割。残り7,8割は忘却の彼方・・・である。それを埋めるために自らの手を使って書いたり、復唱したりするわけなのだから、やはりスマホカメラで撮っておしまい、はないよな~と思う。スマホは覚えてくれているかもしれないけれど自分の頭には入っていないのだから。
とはいえ、あれ、なんだったっけ、と思ってすぐにスマホでググれるご時世、便利であるには違いない。自分でシコシコと辞書を使って調べる、というのはかなり敷居が高いのだろうか。敷居が高いからこそ汗をかいたからこそ定着するのだと思うけれど。むろん試験会場ではスマホチェックは出来ないのだから(以前、器用にそういうことを実践した受験生がいたけれど)、条件反射的に手が覚えていないと困るだろうに・・・。
いずれにせよ、何をするにせよリコンファームとダブルチェックは大切だ。一旦思い込んでしまったら、新しい情報はシャットアウトされて上書きされないだろう。怖いことだ。心していかなければ、と思う。
今日は朝から冷たい土砂降り。昼休み、予報通り雨は止んでくれたけれど、その後暖かくなるというのは外れだった。ラッキーにも夕方前に職場のベランダからとても大きな虹を拝むことが出来たが、気圧のせいか頭痛もする。この天気でますます胸痛が酷くならないことを祈りたい。
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診察室のワルツ:/55 思い込みを防ぐ工夫を=岡本左和子(毎日新聞 2013年12月05日)
師走に入り、冬の味覚が楽しみな季節になりました。ところが最近、私はフグにアレルギーがあることが分かり、おいしいものを一ついただけなくなってしまいました。
病院にもさまざまなアレルギーを持つ患者が来ます。先日、講演先で「参った」という話を聞きました。Aさんは魚介類にアレルギーがあり、カルテに記載され、関係者全員に周知されていました。ところが、ある日、Aさんの夕食にエビが入っていました。Aさんが「食べられない」と申し出たところ、代わりの主菜はイカ。それも食べられませんでした。
調理担当者は「魚にアレルギーがある」と聞き、エビやイカは大丈夫だと思ったそうです。別の病院では、キウイとイチゴにアレルギーがある患者に誤ってキウイを出してしまい、謝罪の際に持っていった手土産がイチゴだったという、笑えないエピソードも聞きました。
患者のアレルギーについて聞いた最初の担当者から調理担当者に伝わる間に、「魚介類」が「魚」になり、「キウイとイチゴ」のイチゴが忘れられたのでしょう。担当の人それぞれが思い込み、お互いに確認をしなかったため、最終的に異なったメッセージに化けてしまったのです。伝言ゲームの恐ろしさといえます。
ゲームであれば笑ってすみますが、病院では医療事故につながりかねません。「ある薬剤を筋肉注射すべきなのに静脈注射をする」「消毒剤を点滴薬と思い込む」などは、実際に起こる可能性があるミスです。
人の記憶にとどまるのは、聞いたことの20%、見たことの30%、自分で言葉にするか書き留めると70%、聞いた内容を教えるか行動にすると90%−−とされます。ですから、診断や治療計画は必ず複数で伝える(患者は聴く)、その内容を書き留め、言い直してもらうなど、相手と確認をする工夫を、患者・家族もかかわる形で病院のシステムとして作ってほしいと思います。手術の説明など、一つのことを複数の人で同時に聞くことは、勘違いや聞き逃しを防ぎ、声にならない反対や不承知などのニュアンスを見逃さないことにもつながるため、思い込みの防止が期待できます。(おかもと・さわこ=奈良県立医大健康政策医学講座助教)
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12月、クリスマスに忘年会・・・と美味しいものを沢山頂けるシーズン。食物アレルギーがあるとそれは大変だろうな、と思う。幸い我が家では誰もそういう人がいないけれど、学校給食でのアナフィラキシーによる死亡事故には胸が痛んだ。
息子が小学生の頃、アレルギーで毎日お母様の手作りお弁当を持ってきていたお友達がいた。命にかかわることとはいえ、自分だけが常に他のお友達と同じものが食べられない、外食も難しい、お友達の家に遊びに行ってもおやつも頂けない、というストレスは小さな子供にとって計り知れないものだったろうし、お母様の日々のご苦労もどれほどのものだったのだろう、と推察する。翻って、何でも美味しく安心して頂ける体であることに改めて感謝しなければならない、とも思う。
そして“記憶”の部分でもなるほどな、と思う。私が学生だった頃、覚えるためには、音読し、ひたすら書いて、テープを聞いたり替え歌にしたり・・・と、いわば五感に働きかけながら努力した。もちろん、時代が違うといえばそうかもしれないけれど、息子や今の学生さんたちを見ていると、メモを取ることをあまりしない。授業をしっかり聴いたとしても歩留まりは2割、メモをとらずに黒板の板書を見て3割。残り7,8割は忘却の彼方・・・である。それを埋めるために自らの手を使って書いたり、復唱したりするわけなのだから、やはりスマホカメラで撮っておしまい、はないよな~と思う。スマホは覚えてくれているかもしれないけれど自分の頭には入っていないのだから。
とはいえ、あれ、なんだったっけ、と思ってすぐにスマホでググれるご時世、便利であるには違いない。自分でシコシコと辞書を使って調べる、というのはかなり敷居が高いのだろうか。敷居が高いからこそ汗をかいたからこそ定着するのだと思うけれど。むろん試験会場ではスマホチェックは出来ないのだから(以前、器用にそういうことを実践した受験生がいたけれど)、条件反射的に手が覚えていないと困るだろうに・・・。
いずれにせよ、何をするにせよリコンファームとダブルチェックは大切だ。一旦思い込んでしまったら、新しい情報はシャットアウトされて上書きされないだろう。怖いことだ。心していかなければ、と思う。
今日は朝から冷たい土砂降り。昼休み、予報通り雨は止んでくれたけれど、その後暖かくなるというのは外れだった。ラッキーにも夕方前に職場のベランダからとても大きな虹を拝むことが出来たが、気圧のせいか頭痛もする。この天気でますます胸痛が酷くならないことを祈りたい。