ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2014.12.23 有難や~年末の祝日

2014-12-23 19:23:00 | 日記
 今日も冬晴れの良いお天気だ。土曜日でもないのに、ベッドの中で朝の連続テレビ小説鑑賞と洒落こめる、有難い祝日である。
 挙句の果てはその後も二度寝をしてしまい、腹ペコの夫にドヤされる始末。起きたら干すだけにセットしていた洗濯干しまでやらせてしまって、我ながらトホホな主婦である。

 けれど、ブランチでエネルギーチャージをした後は、主婦の鑑を目指して俄然頑張った。キッチンのレンジ回りを必死に磨き上げ、ピカピカに。この綺麗なキッチンをキープするために今日は料理をしない方が・・・と思ってしまうくらいである。まあ、そんなことを思う位なら、毎日その場でちょっとずつ綺麗にしておけばいいのは重々分かっているが、なかなか・・・。

 拭き掃除も済ませ、スッキリ。朝食が遅かったこともあり、結局、昼は抜きになってしまった。夕方からのピラティスのクラスに出かける前、薬を飲まねば、とお茶とお菓子で誤魔化しておしまい。

 それにしても、今年も余すところあと1週間、という気が全くしない。今週末には息子も帰ってくるではないか。
 早々と準備をした割にはそれで満足してしまっていた年賀状をようやく書き始め、何とか半分ほど書き上がった。あと2日ほどで仕上がるだろう。夫は一枚いくらで書いてくれないか、と例年のように頼んできているが、どうしたものか。

 それにしても、今日がお休みで本当に有難かった。実を言えば、無謀なことに、夫が以前から行きたいと言っていた観光地とイルミネーションを組み合わせたバスツアーを予約していたのだ。ところが、残念ながら人数が集まらず催行中止になったという連絡があった。まあ、年の瀬の忙しい中、そんな酔狂な人はそうはいないのだろうか。もし、これで催行になってまた1日遊び呆けていたら、家のことは一体どうなっていたやら・・・想像するだに恐ろしい。

 まだまだ、あちこち気になるといえば気になるけれど、今日の1歩は大きい。
 年末年始休暇に読もうと思って買い込んだ1月の新刊の文庫もテーブルに積み上がっているし、撮り貯めているビデオも少しは観たい。映画だって行きたいし、気になるヨガのワークショップもあるし・・・、と相変わらず欲張りなので、時間が足りないのである。

 もちろん治療中の身、小さな不調は多々ある。けれど、それでも何より、今こうして貪欲にあれもこれもやりたいと思える心と、何とかやってしまえる体に心底感謝である。
 そして、今日という年末の有難い祝日(何と良い日にお生まれになってくださったことか!)にも感謝である。
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2014.12.22 19年ぶりのおめでたい日に

2014-12-22 22:02:19 | ヨガ
 今日は19年に1度、冬至と新月が重なる珍しい日なのだそうだ。
 太陽が昇っている時間が1年で最も短い今日は、旧暦の11月1日で、月の満ち欠けが見えなくなる新月と重なり、19年に1度巡ってくる「朔旦冬至」である。
 19年前の冬至‐1995年12月22日と言えば、私はほぼ臨月のお腹を抱えて、漸く産休に入り、ノッシノッシと家の中を歩いていた筈だと思うが、その日の夜、お約束通り南瓜を頂き、柚子湯に浸かったのだったか、全く記憶にない。息子はお腹にいる時からお風呂好きだったようで、お風呂の中で思いっきりお腹を蹴られまくられて大変だった記憶はリアルなのだけれど。

 さて、冬至は言うまでもなく二十四節季の一つ。太陽の高さが1年で最も低く、この日を境に昼が長くなっていく日である。国立天文台によれば、東京では今日の日の出から日の入りまでの時間が9時間45分だという。
 抜けるような青空の良いお天気だけれど、午後の3時を過ぎれば、もう日差しがかなり傾いて、早くも日暮れの様相を呈してちょっと哀しい。24時間のうち14時間15分が暗いと言うのだから、それはもう夜が長く、昼が恋しく感じるわけである。
 もちろん、北の国ではもっと・・・なのだけれど。20年前、研修で北欧に出かけた折には本当に朝が遅く、明るい時間に摂れる食事といえば、唯一ランチだけだった。ランチが済めば、今度はあっという間に日が暮れてしまい、すぐに眠くなってしまったことを懐かしく思い出す。
 一方、地球から見て月が太陽と同じ方向にある新月は「朔」と呼ばれ、新たな満ち欠けが始まるものとして、古くから喜ばれてきたそうだ。中でも、冬至と重なる「朔旦冬至」は特にめでたい日とされ、祝いの対象になってきたという。

 そう、夜が一番長い日とは、言ってみれば、これから少しずつ、でも確実に昼が長くなっていく日である。そして、月が見えなくなる新月の日も、これからどんどん月が満ちていく日である。考え方を変えれば、これからどんどん明るく、前向きに過ごせそうではないか。

 そんな2014年最後の新月の夜、ノー超勤ウィークに当たっている職場を定時で退けて、ヨガスタジオのワークショップ“月ヨガwith キャンドル”に参加してきた。キャンドルを使ったヨガは、7月のヨガリトリートで初めて経験して、その柔らかい光の暖かさに知らず知らず涙が流れるほどの感動を味わった。
 月と私達の体は密接に繋がっているという。新月の骨盤は閉じた状態だそうで、そういう時にはデトックスに向いているらしい。キャンドルの灯に包まれたスタジオで初めての月礼拝を経験し、その流れるような優しい動きに心がとても穏やかになった。いつもの太陽礼拝は終わった後、力が満ちてくるような感じだが、それとは趣を異にし、心が落ち着くようだ。人それぞれ太陽礼拝、月礼拝どちらかがしっくりくるそうで、月礼拝が好きという人はいつも頑張りすぎている傾向があり、それを鎮めてくれるようだ。これからは月に1度開かれると聞き、次回も是非、とすっかり気分良く帰宅した。
 
 あとは柚子湯で温まり、風邪をひかずに今年の冬を乗り越えたいと思う。
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2014.12.20-21 相変わらず強欲な土曜日と日曜日

2014-12-21 21:28:25 | 日記
 今年もあと10日になってしまった。
 全く実感が湧かず、年末年始のやるべきことが何一つ出来ていない。にもかかわらず、学習することなく懲りることなく、相変わらず出歩いているトホホな私である。

 土曜日。朝からはっきりしないお天気で、予報通り冷たい雨になる。ベッドの中での朝の連続テレビ小説鑑賞はいつもどおり。洗濯を終えて、月1度のお愉しみのマッサージに出かけた。長年お世話になっていたゴッドハンドのTさんが、ご自身の病気治療専念のため今月から休職されることになり、先月は、Nさんが、今日は初めましてのHさんが担当。お上手ではあったけれど、さすがに15年慣れ親しんだTさんのタッチがやはり懐かしく、なんとなくしっくりしない。終了後温かいハーブティを頂き、年末のご挨拶を済ませて、お友達とのランチに向かった。
 折しもクリスマス直前の土曜日ということで、雨にもかかわらずレストラン街は大混雑。クリスマスの特別コースがどれも素敵だ。ちょっぴりお値段は高めだったけれど、せっかくだから、とフレンチのフルコースを頂く。食べきれないかと思いきや、3時間近くかけて2人とも完食。こんなに頂いたのはどのくらいぶり、という感じ。たっぷりお喋りもして、良いお年を、とご挨拶した後、お腹ごなしに夫と息子のクリスマスプレゼントを物色する。お友達からプレゼントを頂いたし、長傘もあるわで、帰り道は両手がふさがる大荷物になった。
 最寄駅に到着すると土砂降り。荷物は多いし、とても歩いて帰る元気がなく、止む無く15分近く並んでタクシーで帰宅した。
 夫が夕食を用意してくれていたけれど、お腹一杯で殆ど頂けずじまい。お腹の薬を飲んでいる身でまあ良く頂いたものよ、と思う。
 忘年会もクリスマス会の予定もないので、今回のランチ会が唯一クリスマスらしいお食事会だ。
 外国の知人に送るクリスマスカードだけなんとか書き終え、あっという間に就寝時間になった。

 日曜日。少しだけ寝坊をし、午前中はインナービューティヨガのクラスに参加した。大好きなクラスで、うんと汗をかいてスッキリする。昼は夫と待ち合わせて軽食を済ませ、大学の合唱団で同期だった友人が所属している女声合唱団のクリスマスコンサートに向かう。ゴッドハンドのTさんとご一緒する約束だ。
 ホール前には開場前から長蛇の列。クリスマスらしく舞台に飾られた大きなリースが見事だ。大きな会場だったが、満席でびっくりする。メンバーは18名でソプラノ、メゾソプラノ、アルトがそれぞれ6人ずつというこじんまりした団体だが、4ステージたっぷりと熟女らしい声を聴かせて頂いた。アンコールのラストには、クリスマスらしく“聖しこの夜”。すっかり心を洗われた思いだ。
 終了後、観客席にいた、これも大学の合唱団で同期のソプラノの友人2人とも逢うことが出来た。うち一人とは四半世紀ぶりの再会。50歳過ぎて「キャー、○○ちゃん!」もないものだが、いきなりタイムスリップして、手を取り合ってすっかり女子大生気分。舞台から降りた友人ともロビーで記念撮影をした。その後、今日は残念ながらお友達とご一緒なので、と断ってお別れする。
 Tさんと紅茶とケーキでお喋りした後、買い物をしながら最寄駅で夫と再合流。今日は昼も夜も外食・・・という体たらくだけれど、まあ、このスケジュールでは致し方あるまいと得意の自己正当化。夕食後、駅のショッピングセンターで開催中だったクリスマス福引で、夫が見事お食事券を当ててくれて、気分良く帰宅した。

 今年もあと数日出勤すれば仕事納めである。家事がすっかりお留守なのは今に始まったことではないが、ちょっと反省・・・の土日であった。
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2014.12.19 タイの仙人もいいかもしれない!

2014-12-19 19:59:07 | ヨガ
 以前から気になっていたヨガスタジオの「ルーシーダットン」というワークショップに参加してみた。
 最初に聞いた時は(ルーシー・ダットンって、このエクササイズを開発した人の名前?)と思ったのだが、実は次のような意味がある。
 “ルーシー(ฤาษี)”は、元々はタイ語ではなく、サンスクリット語でリシ(RISI)と発音し、「行者」「聖仙」などの意味を持ち、インドの古典リグ・ヴェーダに、神とこの世とを繋ぐ者として描かれている。“ダッ(ดัด)”は古いタイ語で、「伸ばす、引っ張る、曲げる」「正しい方向に矯正する」等の意味を、“トン(ตน)”は「自己、自分」という意味を持つ。すなわち“行者の自己整体”から、もっと親しみやすい言葉で言えば、「仙人体操」と訳すこともできる(Wikipediaより)。

 そう、つまりは“タイの仙人”体操!なのである。殆どの参加者が初体験だったため、冒頭、インストラクターKさんから「タイにはタイ古式マッサージ(2人ペアで行う。私も随分前にやってもらった経験があり、ストレッチが実に気持ち良く、一人で行うのに比べ可動域がびっくりするほど広がる。)が有名ですが、ルーシーダットンは自分一人で捻じったり、曲げたりする体操で、タイ古式マッサージと同様、タイに古くから伝わる伝統医学の一つ、自己整体法です。」という説明があった。

 75分のクラスだからいつもより15分長い。大丈夫かしら、と思ったけれど、案ずるより産むが易し。普段より少し低めの室内温度で、6秒位かけてゆっくり息を吸い、吸い切ったところで口をすぼめてシューと音を立てながら、ゆっくり吐き切ることを繰り返す。その呼吸の練習だけで、汗がジワジワと流れる。そもそも、修行者たちが長時間の修行や瞑想による凝りや、時には痛めてしまった身体を自己調整するために編み出されたもの。タイ式ヨガと言われることもある。しかし、本来は修行・瞑想であるヨガとは根本的に目的が異なり、ある意味対角に位置するものと理解出来るという。世界最古の医学アーユル・ヴェーダの第一人者で、ブッダの主治医を長年務め、晩年タイに移住したシヴァカ師によって開発されたものとされる説もある。つまり、アーユル・ヴェーダの運動療法として存在していたものが、タイに伝承され、その原型を残したまま、綿々と伝承されてきたとも考えられるそうだ。
 もともと、自己整体を主眼に置いて作られている為、ポーズも超人的なものや高度な柔軟性・バランス力・筋力などを要求されず、瞑想や精神統一なども、さほど重視されていない。

 親しみやすく安全な内容で、ゆったりした呼吸で動作を行うため、無理なく呼吸が深まり、動きながらの瞑想状態に入りやすい。マッサージ゛要素も入る為、身体の歪み、凝りとともに内臓の不調も取り除く。反復運動とゆっくりな呼吸で、ホルモン分泌や、神経の伝達を正常化。不安、イライラを鎮め、前向きな精神状態へ導くとともに、各臓器からの信号を正確に脳に伝わりやすくしていく、といいことづくめ。最後はショート・メディテーションの後、安らぎのポーズ、シャバアーサナ。

 すっかり満足して、「タイの仙人も、いいかもしれない」とタイ贔屓の単純な私は、ついついニコニコしてしまうのである。
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2014.12.17 20年の時を経て・・・

2014-12-17 21:48:22 | 日記
 今日、職場でとてもびっくりする電話を取った。
 普段はまずかかってくることのない、本庁の広聴部門からの電話。
 うーん、何か悪いことをして投書されるような記憶はないし・・・一体何だろう、とドキドキして電話を受けると、スウェーデンから“旧友を探しています”という英文メールが、私宛に届いているようだ、とのこと。「20年前にこちらに調査にいらした○○○○(私のこと)と会いたい」ということが書いてあるようだが、○○○○さんで間違いないか?転送して良いか?と訊かれた。
 20年前の1994年、研修のため、単身でスウェーデンの各都市を訪れたことは事実だ。お手数をおかけして申し訳ありませんが・・・と転送して頂いた。

 メールをくださった方の名前を聞いた時に(ちょっと発音が難しいので、スペルを読んで頂いた)もしやあの方かしら・・・と、当時インタビューをさせて頂いた何人かの方たちの顔と名前の想い浮かべた。
 帰宅して写真と名刺を突合したところ、ビンゴ!だった。あの街のあの会議室で、あのパネルを使って説明をしてくださった方。私の研修報告書でも写真入りで登場してくださった方だ。

 来年の3月、東京のある大学の先生の招待で、ワークショップのプレゼンテーターとして来日されるとのこと。もう20年も前のことなので、私が今も当時の部署にいるかどうかはわからないけれど、もしどうしているのかわかれば、そしてもし可能ならば、コンタクトが取れて来日した時に会えれば嬉しいのだが、というものだった。

 それにしても、こんなことがあるのだな、と思う。
 もちろん、今は20年前に調査に出向いた仕事には直接関わっていないので、そういう意味ではお役には立てないのだけれど、20年という時間とスウェーデンと東京という距離(一直線で8,100Km!だという。)を経て、実際に再会が叶ったらどれほど凄いご縁だろう、と思う。

 今でも、当時お世話になった方たちのうちの数名とは、クリスマスカードのやりとりがある。
 一昨日の月曜日にもストックホルムから1通頂いて、まだ準備していない私は慌てているところだ。

 だが、今回のメールをくださった方とはそうした交流も特になかった。20年もの間、私の名刺を大事に持っていてくださった・・・というだけでも、なんだか胸がジーンとする。

 最近、公私ともに英語を話す(無理やり絞り出すレベル)ことも書くこともめっきりなくなったけれど、錆びついた頭に油を差しつつ、辞書とにらめっこしながらメールのお返事を書いてみようかな、と思っている。

 それにしても今年は寒い。風は冷たいし、加えて雨や雪も多いように思う。そして気付けば寒さが沁みて痛む胸を庇って姿勢がどんどん前のめり、である。
 そんな中、心がほっこり温かくなった幸せな出来事であった。

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