散日拾遺

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加齢/自由/3月11日

2015-03-12 08:31:51 | 日記

2015年3月11日(水)

 翻訳に集中したいのだが、会議日では仕方がない。

 

 わが家から最寄り駅に向け、かなり急峻な坂道がある。50mほどだが、風邪のあがりには少年期にも息が切れた。

 これを大股に登っていくのを、一日のはじめの良い準備運動として40年過ごしてきたが、この冬はどうかすると膝に違和感を覚える。これまで準備運動と考えてきた動作に対して、準備運動が必要になる。 これが加齢というもので、ラジオ体操などは、「それもいいね」から「ゼッタイ必要」へと意味を変えつつあるわけだ。

 

 ただ、診療に関しては、加齢は決してネガティブなものではない。むしろその良さを感じるところが少なくない。

 精神科の診療は医療行為であるとともに、他で話せないことのひそかな開示といった、ただならぬ意味をしばしばもつ。そうした役割を拒絶排除するなら話は別だが、これをある程度になっていこうとする場合には、聞き手がある程度の年輩であること(特に語り手と比べてひどく年少でないこと)は有利でこそあれ、不利にはならない。

 女性の患者が、こちらの男性性に無用に反応しなくて済むという効果もある。あるいは、女性の患者がこちらの男性性に無用に反応していないだろうかと、こちらが無用の気を使わなくて済む。

 

 臨床家 年をとるのも悪くない

 

 川柳にもなっていないが、実感である。

 

*****

 

 電車の中では、例によっていろんなことが思い浮かぶものだ。「三上」の一、馬上は今日では電車内である。

 

 最近、午前10時から11時の精神の golden hour に妙に眠気が差すことがあり、これも加齢のせいかと腐っていたが、これは全くの勘違いだった。

 印刷教材や翻訳に気持ちが入り込んでいる限り、この時間は毛ほども眠くならない。ただ、一気呵成に13時頃まで作業を続け、昼食休憩を入れた後の午後の時間はダメである。眠いと言うこともあるが、なぜかどうにも士気が上がらず、自分が別人になったような気がする。

 トーマス・マンが「神聖な午前 der heilige Morgen」に作業を集中し、午後は書くことを自分に許さなかったということを、もっぱら観念的でモラールな話として理解していたんだが、実は至って生理的かつ実際的なことであったのかもしれない。

 

 今日はそういう意味では眠くないのだが、京葉線の南側の座席で三月の日差しをガラス越しに浴びると、それこそ生理的な方面から快適な眠気が立ち上ってくる。

 

***

 

 「自由を制御できない人は、自由の人とは言えない」

 という言葉が浮かんだ。

 高校受験前に「中三コース」だか「中三時代」だかで見つけて妙に感じるところがあり、切り抜いて鉛筆削りに貼り付けたりした。自由を制御できない自分を当時から知っていたのだろう。

 出典は確かピタゴラスだったと思うが、確認を・・・と思ってネットで検索したら、出てきたのが自分の書いたブログ記事である。2014年3月31日。これには笑った。

 何だろうな、この季節にこういうことを考える理由があるのかしらん。

 生まれた季節であり、従って死に近づく季節でもある。

 

***

 

 2時46分、教授会を一時中断して黙祷。

 国の行事を放送で流し、それにあわせて黙祷を、と担当者が予告したものの、何かの不具合で放送が流れない。どうした放送大学、と皆が苦笑する。隣のY先生が「全国一斉にっていうのも、なんだかね」とおっしゃるのが、彼女の気骨と人柄を良く著している。

 核心に触れる一言だ。

 

 今年度いっぱいで退職する方々の名簿に、岩手学習センターの齋藤徳美先生のお名前がある。3月11日にこのことを知るのも、個人的には感慨がある。

 2013年5月8日「齋藤先生と地熱発電」で記した通り。かくして満4年を経る。

 

 震災の前日が次男の大学合格発表で、彼らは入学式が行われなかった。早くも今春は卒業である。

 「無事息災」の、どれほど大きな幸であることか。