2015年3月15日(日) 振り返り日記の続き
Wさんは松野町の上級保健師なんだが、同時に放送大学の学生でもある。こういう頑張り屋さん たちが、放送大学の不動の主役だ。昨年4月、松山での僕の面接授業に出席、その帰り際に「松野町まで話にきていただけませんか?」と質問された。「はあ、 喜んで。足代さえいただければ、それで構いませんので」という返事は、ちょっと失礼だったのかな・・・
Wさんは、ちゃんと足代を工面してくれた。ならば僕の方に断る理由は何もないのである。ただ、「精神疾患の話」という当初の提案は、現場の実情と関係者の力関係で「認知症」にシフトした。認知症も精神疾患には違いないけれど、認知症の専門家なら他にいくらでもいる。
「いいんですか?通り一遍の話しかできませんよ?」
「いいんです、通り一遍の話で。」
釈然としないなどと、こういう時は言わないものだ。Wさんは二日間みっちり僕の脱線だらけの話を聞いてくれている。その人が「いい」というなら、信用する ものだ。というわけで今回の松野町詣でになったのである。しかし、まさか町長さんや教育長さんまでお出ましとは思わなかった。僕が思っていたより、ずっと 大事な講演なのだ。
車の中で、Wさん・Tさんからいろいろと話を伺う。和太鼓をなさるというTさんが、ときどきハンドルから両手を離して 手振り混じりに説明してくださるのが、ちょっと恐いような。松野町は例の合併狂騒曲を幸か不幸か生き延びて、結果的に愛媛県最小の町となった。人口 4,300人、若者は減る一方で、昨年の出生数が15人内外、老老介護の現実は他所と全く変わらない。そして潜在的無医地区である。「潜在的」というのは 自治医科大学の卒業生が2名来てくれているからで、この若い医師らが非常によくやってくれているという。それで片づかないことは宇和島頼みになるが、そも そも南予全体に精神科医はてんで足りない。
町民が必要としているのは、講演者ではなくて医者なのだと、申し訳ない気持ちになる。 70~80人ぐらいのつもりだったんんですけど、100人ぐらいになりそうです、とWさん。ただ、この雨降りでどうなりますかと語らっていたが、フタを開 けたら会場の大会議室が一杯になった。150人ほども集まっているという。高齢の方々だけでなく、壮年・青年の男女の姿も少なくない。始める前から何だか 胸の詰まる感じがする。人口4,300人の地方の町の未来は、実は日本社会の未来そのものではないか。
1時間余りの持ち時間の、前半を認知症、後半をうつ病に充てる。前半では予定通り、池下和彦さんの詩を紹介した。
『いいちがい』
ぼくをよぶつもりで
ここにはいない息子の名前を口にする
いいちがいに気がついて
それから僕の名前をかんがえる
目のまえにいる僕の名前など思い出さなくていい
ここにはいない息子を呼ぶため
母には覚えておく名前がある
これ、すごいのだ。「目の前にいて、毎日面倒見てるボクの名前を忘れて、なかなか顔も見せない兄/弟の名を呼ぶのか」と考えたら、口惜しくも忌々しくもな るだろう。しかし考えてみれば、目の前にいて手で触れることのできる相手なら名前は要らない、手を伸ばして触れれば良いのだ。そこにいないものを自分の中に保っておくためにこそ、名は必須である。
そこに気づいた池下さんが偉い。気づけたことが素晴らしい。このような知恵を「共感的理解」と呼ぶのだ。認知症に限らず困難をもつ相手の援助を、このしなやかな知恵がどれほど生き生きとさせることだろうか。
こんなことを夢中で話すうちに、1時間あまりがあっという間に過ぎた。質疑応答、5人ばかりが代わる代わる立って、鋭い質問やら心に沁みる体験やらを語ってくれる。質問者は女性ばかりで、少し煽ってみるが奥ゆかしい南予の男性はなかなかマイクを握ろうとしない。質問者の中に今治から来た人がある。松野町の医療圏は高知県にもまたがる。狭くて広い四国が会場につまっているようだ。
最前列に陣取った年輩の女性が、「私は言いたいことがあるけんど、皆の前で話したりはせん。先生、後でここへ」と野太い通る声できっぱり指示し、また会場が和む。何も特別なことを話しもせず、しかしわかりきったことをこうして語り合うのが尊いのだと、いつになくそういう気がする。
人口4,000余の松野町も、千数百万の東京都も、抱えている問題のキモは実はまるで同じなのである。こうした町に元気が宿り、それが日本の原型になるような時代が来ないだろうか。巨大なアメリカの原型を Clarksville の小邑に見たことを思い出す。「細胞」と喩えてもよい。細胞が健康を取り戻すには、自然に抱かれた地方の力がどうしたって必要なはずだ。
終了後、町長さん、教育長さんはじめ、皆が総出で送ってくれた。渡された小さな箱は、先に種明かしすれば松野町のお宝がぎっしり詰まったお宝箱で、地酒・酒粕から梅干し・漬け物・手ぬぐい・和菓子の類いまで十七福神というような賑わいである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4c/bb/86b631c143b5823b0b6e67a9c9c812dd_s.jpg)
宇和島まで送ってくれる道々、WさんとTさんが虹の森公園へ案内してくれた。小ぶりながらよく整備されたアミューズメントサイトで、「おさかな館」やガラス工房で長居するゆとりのないのが残念である。かつては町を挙げて桃を植え育てていたというが、山にも里にも桃が満開の眺めはさぞ圧巻であったろう。今は「桃源郷マラソン」に名を残す、なるほどこの地には何か桃源郷の香りがある。
ガラス工房の作品には小さく息を呑んだが、残念ながらカメラをもたない。虹の森公園のURLだけ記しておく。
http://www.morinokuni.or.jp/
***
さすがに疲れた。今日の行程や講演に疲れたのではない、気持ちよく仕事して心からもてなしていただいたおかげで、半年の疲れが出てきたのである。この足で松山を北へ過ぎ、両親の様子を見に行くのだが、帰途はまたたくまに居眠りに落ち、菜の花も大洲のお城も記憶にない。
内子町で海外からの団体が乗り込んできた。中国語に聞こえたが、台湾からだという。台湾語でもサヨナラは再見なのかな、おぼつかないまま言ってみたら、笑顔で同じ言葉が返ってきた。
JR柳原駅では19時も過ぎ、むろんとっぷり暮れている。最後に失敗、宇和島で松山までの切符を買い、車内で乗り越し精算するのを忘れていた。
柳原は無人駅である。その向こうに向かえに来てくれた父の車が見える。やれやれと歩き出すと、2両編成のワンマンカーから降りた運転士兼車掌さんに「切符をいただきます」と前を遮られ、飛び上がった。
「あ、ごめん」「乗り越しですか?」
運転席へ駆け戻り精算機を取ってくる。360円。千円札を渡せば良かったのに、ちょうどあると見て渡したつもりが、「これは50円玉ですね」、あと50円、10円玉に5円玉に1円玉5枚、何をやってるのこの父ちゃんは・・・
車内灯とほの暗い街灯の下で、1円玉を地面に落としたりしながら過ぎる時間の長く感じられること。無事終了、2分ぐらい電車を遅らせたかな。運転士に会釈して手を振ると、しっかり敬礼を返しながら闇夜に向かって発車していった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5a/cd/7d37b59103d2aa0b8cc9dca2f54489aa_s.jpg)