2016年3月13日(日)
レントも大詰め間近の日曜日。中高生の礼拝でヨハネ19章の17節~30節を扱う。「我がこと成れり」の主イエスの言葉で締めくくられる、十字架の場面である。
準備といって、何をすることもない、凄絶なこの場に聞き入ることしかないのだが、ふと気づいた。
「こうして彼らはイエスを引き取った。」(16節)
「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(27節)
同じ「引き取る」でも、前者はローマの兵士たちがイエスを十字架につけるため、後者は弟子がイエスの委託を受けてその母を世話するためで、意味は全く違う。訳語を揃えてあるところから原語も同じであることと予想したが、確かめると微妙に違うのである。
もう一つあった。
「イエスは、このぶどう酒を受けとると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
「引き取る」三題、これが今日のテーマなのかな。