散日拾遺

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真田三代と家族自我

2016-03-26 09:07:13 | 日記

2016年3月26日(土)

 大河ドラマそのものは脚本家から予想できるとおりの展開だが、ともかく真田一族の足取りを年表に沿って追っていきたいので、何となく見ている。年の初めに贈った『真田三代』を父が読み終えて置いていったので、ありがたく読んでみた。著者・火坂雅志(ひさか・まさし)は僕の一年上で、同学年かも知れない。2009年に大河ドラマ化された『天地人』の著者でもあり、残念なことに昨2015年2月逝去とある。新潟県出身だそうだから、上杉家と直江兼続には思い入れひとしおだったことだろう。

 テレビの『真田丸』はいわば真田二代で、話が壮年の昌幸から始まっている。しかし話は昌幸の父・幸隆に遡るというのが『真田三代』の視点で、これには大いに理由がある。というのも、昌幸は本来、真田家の惣領ではなくて三男に過ぎない。長男が跡取り、まさかの時に備えての補欠が次男とすれば、三男以降は半ば捨て駒要員という戦国の習いで、昌幸は弟の信尹(のぶただ)と共に武田家に人質に出される。ところが例の長篠の合戦で真田の長男・次男が討ち死にするという悲運に見舞われ、この時から昌幸は惣領、信尹はその補佐役として真田家を支えることになったのだ。

 『真田三代』に依れば、人質として苦労もし若いながらに人生を見切っていた昌幸は、長篠の合戦に際しムキになって奮戦・犬死にせぬよう兄らに忠告しようとした。真田家は武田に随身してまだ日が浅く、群臣こぞって無謀を諫める武田勝頼の強引な用兵に殉じる義理は、公平に見たって乏しかったのだ。「命を大切に」との昌幸の思いむなしく、長兄・次兄があっけなく討ち死にした、その時から昌幸の徹底したマキャベリズムが始まったというのである。なるほど、一理も二理もありそうに思われる。そうでなければ、草刈正雄扮する(1975年の『風と雲と虹と』出演時と比較し、実に実に感無量である!)昌幸の鵺の如き正体のなさは、ただ不気味で不快なばかりだ。兄二人を悼みつつ、その轍を踏むまいとする固い決意が加わらないと説明も共感もできない。

 同時に、ただ永らえればよしとするのでもないところが昌幸・幸村父子の面白さで、安全のみを期するならおとなしく東軍に与しておけば良いものを、何を思ったか天下が治まる寸前のところで突如反旗を翻し、関ヶ原に向かう秀忠軍を第二次上田城攻略戦で散々に翻弄する。おかげで秀忠は関ヶ原に遅参し、家康の勘気を被る始末である。

 小説の語るところでは、先の見える真田親子は徳川が天下を取ることを予測もし、またとりたててそれを不当とするのでもなかった。このあたりは坂口安吾『二流の人』の筆の冴えるところである。

「けれども直江山城守は心事はなはだ清風明快であった。彼は浮世の義理を愛し、浮世の戦争を愛している。この論理は明快であるが、奇怪でもあり、要するに、豊臣の天下に横から手を出す家康は怪しからぬという結論だが、なぜ豊臣の天下が正義なりや、天下は回り持ち、豊臣とても回り持ちのひとつにすぎず、その万代を正義化し得る何のいわれもありはせぬ。けれども、そういう考察は、この男には問題ではなかった。彼は理知的であったから、感覚で動く男であった。はっきり言うと、この男はただ家康が嫌いなのだ。昔から嫌いであった。それも骨の髄から嫌いだという深刻な性質のものではなく、なんとなく嫌いで時々からかっていたくなる性質の ー 彼は第一骨の髄まで人を憎む男ではなく、風流人で、通人で、そのうえに戦争狂であったわけだ。」(P.145)

「山城は家康を嫌っていたが、それはちょっと嫌いなだけで、実は好きなのかも知れなかった。反撥とは往々そういうもので、そして家康は山城に横っ面をひっぱたかれて腹を立てたが、憎む気持ちもなかったのである。」(P.154)

 これは直江兼続のことだけれど、真田幸村は上杉家の人質時代に大いに兼続の薫陶を受けた節があり、上杉という大家の豊かさ鷹揚さを背負う直江を、大勢力の狭間で忍従しつつ反骨の気を養う真田に置き換えれば、精神の質はたぶん相等なのである。白河の関から会津にかけて、南東北にしかけた壮大な家康捕獲のワナが空振りに終わった直江兼続、大坂の陣では徳川方として参戦しているが、幸村の活躍にさぞ心中で賛嘆したことと想像する。

*****

 ことを「真田家」の歴史として見る場合、これ実はまれに見る自己実現の成功例と思われる。父・昌幸と次男・幸村は、関ヶ原戦後に当然処刑されるべきところ、長男・信之の(そしておそらくは、その舅にあたる家康股肱の本多平八郎忠勝の)必死の嘆願で助命され、さらに遠島されるはずが大坂から遠からぬ紀州・九度山へ軟禁という軽い扱いで済んだ。そのために大坂の陣では幸村の参戦が可能になり、乾坤一擲の強襲で家康あわや首を取られる寸前まで行ったのだから、ほとほと真田家には手を焼かされている。といって真田信之、弟の責めを負わされるでもなく、信濃上田藩、後に信濃松代藩の初代藩主となって、その家名は明治まで続いた。剰えこの人物は、1566(永禄9)年の生まれで1658(明暦10)年の没、つまり92年にわたる当時異例の長命を全うしている。

 「真田家」をひとつの人格にたとえた場合、信之は現実原則に従って身の安全を守り、幸村は快感原則を体現して思いきった逸脱行動に出た。互いがあるので、それぞれであり得たと、どうしてもそのように見てみたくなる。だから幸村は壮年のさなかに華々しく討ち死にし、信之は弟の二倍以上の生涯を成功裏に終えた。それもあり、これもあるのが、生身の人間であり、生身の家族というものである。

 生身の家族?妙な言葉だね。今や国中に、やせ細って命脈の尽きかけた無数の家族が、砂のように散らばっている。やせてしまったのは飢饉のためか、それともある種の摂食障害のためか。「家族」について何をどう書いたものやら、こちらの頭痛が深刻である。


朝の「?」/愚かさの記録

2016-03-26 08:40:10 | 日記

2016年3月26日(土)

「やるならウェルター級です」

「スーパー・ライト級を飛ばして?」

 佐瀬が信じられないというように訊ねると、翔吾がうなずきながら言った。

「広岡さんと同じ……」

「そうか、仁と同じクラスがいいか」

 星が、広岡に、いくらか皮肉っぽい視線を送りながら言った。

(『春に散る』351回)

 

 この「皮肉」って、どっちへ向いたものだろう?

 広岡は世界チャンピオンにこそなれなかったが、衆目の認める天才ボクサーだった・・・はずだ。彼のクロスカウンターは、習って覚えられるものではない、天性異能の秘技である。その広岡に、素朴に憧れ同一化する若者への軽い皮肉?それとも・・・

 さて、おはようございます!

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 わが愚かさの記録。あんまり恥ずかしいから、訳は書かない。