散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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霞立つ

2016-03-14 23:31:43 | 日記

2016年3月14日(月)

コメントありがとう。

鈴木霞さん、そうでしたね。あの場で名前を思い出せなかったけれど、薄情者と思わないでください。沙羅の会のスタッフの中にいた元・院生さんたちも、顔は覚えておりどんな学生だったかも思い出せるのに、名前が出なくて教えてもらわなければならかったんですから。

つい最近、わが家で良寛さんの手まり歌が話題になり、「手まりつきつつ、この日暮らしつ」の結句は分かるのに、発句が出ないでもどかしい思いをしました。答はあなたと同じ「霞」です。

 霞立つ長き春日に子どもらと手まりつきつつこの日暮らしつ

いいお名前ですね、そう思うでしょう?キラキラネームとは違う、のどかに和やかでいて、決して古びない名前です。

***

良寛さん(宝暦8〔1758〕年 - 天保2〔1831〕年は万葉集に傾倒していたらしく、この歌も万葉風の長歌/反歌セットだったようです。かつ、「霞立つ 長き春日」は万葉の歌の本歌取りなんですって。

 霞立つながき春日をかざせれど いやなつかしき梅の花かも (巻5の846)

作者は小野氏淡理(おのうじのたもり)、タモリさんですね。

良寛さんの長歌/反歌を転記しておきましょう。

 

 『手毬をよめる』

 冬ごもり/春さりくれば 飯(いひ)乞ふと/草のいほりを 立ち出でて

 里にい行(ゆ)けば たまほこの/道のちまたに 子どもらが/今を春べと 手まりつく

 一二三四五六七(ひふみよいむな)汝(な)がつけば/我(あ)はうたひ あがつけば なはうたひ   

 つきて歌ひて 霞立つ/長き春日を 暮らしつるかも

 【反歌】

 霞立つながき春日に子供らと てまりつきつつこの日暮らしつ

 

  

 http://blogs.yahoo.co.jp/kurashiki_prince/18908935.html より拝借


日本語とギリシア語の驚くべき呼応

2016-03-14 22:56:46 | 日記

2016年3月13日(日)

引き続き解題。

「彼ら(ローマの兵士ら)はイエスを引き取った」の「引き取る」は、παραδιδωμι のアオリスト。

「弟子はイエスの母を引き取った」の「引き取る」は、λαμβανω の第二アオリスト。

「イエスは息を引き取った」は παρεδωκεν το πνευμα で、「引き取る」は、παραδιδωμι のアオリスト。

つまり、兵士らがイエスを「引き取った」のと、イエスが息を「引き取った」のとが、同じ動詞の同じ活用形なのである。

 

だから何だ?だからつまり・・・

そもそも「息を引き取る」とは、どういう意味だろう?他に属するものを自分のもとへ移すのが「引き取る」ことであるなら、命のシンボルである息を「引き取る」ことが、なぜ絶命を意味することになるのか?コミュニケーションとか相互移入とかいうことを考えないと説明できない。外の気をとりこんで内の気を更新するダイナミックな営みが「息/生きること」であって、それを「引き取る」とは「引き上げる」ないし「撤収する」こと、外の気との交流を断って内に引きこもることなのだ。それが速やかな死をもたらすことが、何とも意味深いではないか。内閉(とじこもり)すなわち死である。不断の交流の中に命がともる。泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロなどと事情は変わらない。僕らも泳ぎ続ける限り生きており、停止するとき生きることをやめる。それが「息を引き取る」ということだ。「(もうこの世から)お引き取りください・・・」

むしろ驚かしいのは、日本語が「息を引き取った」というところ、ギリシア語は「παρεδωκεν το πνευμα」ということだ。なんということ、全く等価な逐語変換ではないか!

兵士らは、自分たちが「引き取った」ものの価値を知らない。知らずにことが成就することを手伝った。

「成し遂げられた」 τετελεσται  ・・・  ヨハネ福音書が告げる、主の十字架上の結句である。