散日拾遺

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志摩供養

2016-03-31 08:45:43 | 日記

2016年3月31日(木)

・・・というのだそうだ。

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 1924年、第1回選抜で高松商が優勝を果たした。この時、高松商の三塁を守っていたのが志摩定一選手である。志摩はこの後、胸部疾患を患ったが、夏の予選にはそれを隠して出場し続けた。このため病状は悪化し同年冬に逝去した。この時、「自分が死んでも魂だけは高商の三塁を守り続ける。」という遺言を残したという。

 この遺言の精神を守り、また志摩を供養するため、高松商の試合では1回の最初の守備に就く前に、ナインが三塁ベースを囲んで肩を組んで、主将が水を含みベースに吹き掛け、「さあ行こう」と声をかけてからそれぞれのポジションに就くという儀式・「志摩供養」が始まった。この儀式は1978年に高野連の会長・佐伯達夫により禁止されたため、以降の甲子園出場時には行われていなかったが、現在は香川県大会でのシートノック終了時に行われている。

(Wikipedia 「四国四商」より拝借)

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  「禁止」の理由は「宗教行為に映る」「遅延行為に結びつく」というものだそうで、くだらないとうか、理由になっていない。佐伯達夫氏は傑物だが、独裁ぶりや個々の判断には疑問も多々ある。他校が行っていた遺影を抱いての入場行進などもこのとき禁止されたそうで、高度成長期を特徴づける死生観欠落の一断面のように僕には思われる。

 78年夏は60回記念大会で、四国四商が一堂に会する空前の(たぶん絶後の)機会となったが、残念ながらそのうち三校が一回戦負けした。松山商業も一回戦負けで、その時のピッチャーが石丸、キャッチャーが沖。御先祖が同郷の畏友・沖君と中学校のグラウンドで練習までしたのに、主戦石丸は点を取られ、主砲沖はチャンスに外野フライが打てず、同校としては珍しく粘りのない負け方をした。

 今回の高松商は猛打で勝ち進んだと思っていたら、琴奨菊にちょっと似た監督さんは昨日の準決勝を、「今日は守りの勝負」と読んでいたんだそうである。事実、高松商の内野陣は軽快俊敏によく守り、明暗を分けたのも内野守備だった。ゲームセットの5→3ダブルプレーは象徴的で、志摩に捧げるサードの好守備。今日も「ひとつひとつアウトを取っていきたい」との監督コメント、強い者同士であればあるほど防御が鍵になるのは、野球から碁まで勝負事の通則と見える。

 高松商ガンバレ!


野球三題 ~ 鵜久森・杉村・高松商業

2016-03-31 06:07:27 | 日記

2016年3月31日(木)

「嬉しい、涙出そう」とソッコーでラインをよこしたのは、関西の長男である。

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 美しい弧を描いた打球が、左翼席中段に飛び込んだ。

 同点にされた直後の四回。ヤクルトが失いかけた流れを、鵜久森の一振りが変えた。「何を打ったかわからないぐらい興奮してます」。それもそもはず、4年ぶりの本塁打だ。

 昨オフに日本ハムから戦力外通告を受け、トライアウトで拾われた。29歳は、必勝祈願した明治神宮の絵馬に「恩を返す」と書き、「拾ってもらった恩がある。可能性がある限りやってやろう」。この日も球場に一番乗りし、早出特打。「鵜久森の長打力なら、狭い神宮球場で一発がある」(杉村チーフ打撃コーチ)と、今季初めて先発で起用。その期待に、一度はどん底に落ちた苦労人が見事に応えた。

(3月31日、朝日新聞23面)

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 鵜久森(うぐもり)という珍しい姓で覚えている人もあるだろうか、わが家では一度たりとも忘れたことはなかったよ。2004(平成16)年、選抜(第76回)で4番として2本のホームランを打ち、済美高校の初出場初優勝に貢献した。この時3番を打った高橋勇丞(たかはし・ゆうすけ、阪神タイガースを経て現在は大阪で少年野球指導)が「寮則違反」でメンバーから外されたが、鵜久森は夏(第86回)も変わらず4番で出場し、3本のホームランを打ってチームは初出場準優勝。

 この時の決勝の相手が北海道勢初優勝を成し遂げた駒大苫小牧で、5万観衆があからさまに駒苫を応援するのを見て、判官贔屓の身勝手さ醜さを悟った、僕にとっては生涯忘れられない試合である。最終回、済美は「鵜久森まで回そう」を合い言葉にランナーを溜めた。期待に応えて打席に入った鵜久森渾身のスイングは、無念やボールの下を叩いてゲームセットの飛球となった。

 その年のドラフトで、高橋は阪神7巡目、鵜久森は日本ハム8巡目、以来わが家では毎年彼らの活躍を心待ちに、新聞スポーツ欄の隅っこを丁寧に確認してきた。高橋は目立った活躍なく退団したが、少年野球の指導にあたっていると知って安堵の思い。一方の鵜久森が日本ハム戦力外通告後、ヤクルトに来ると聞いてわが家のツバメ党の喜ぶまいことか。オープン戦で一発が出て期待が膨らみ、そして開幕5戦目のこの一打。

 良かったね、これからガンガン打って大輪の花を咲かせよう。鵜久森に似ているというので、鹿の人形をうちの子らはずっと大事に飾っていたのだ。こういうファンもいるんだから、少々不調でもめげないんだよ。

 

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 ところで、上記の記事に出てくる「杉村チーフ打撃コーチ」って、あの杉村繁だね。1975年の47回選抜で、原辰徳らの東海大相模を破って優勝した高知高校の4番サード。原・篠塚と並んで高卒内野手三羽ガラスとも目されたが、プロ入り後はケガにも泣いて11年間で4本塁打、素材からは予想もしない成績に終わった。引退後はフロントも経験しつつ主として打撃コーチを歴任してきたが、近年、名伯楽として注目されつつある。

 「日本球界にもこんな名伯楽がいたのか!ヤクルトの打撃コーチ杉村繁コーチの手掛けた選手が凄すぎる。青木宣親、内川聖一、そして今年は山田哲人が大ブレイクした。」(http://matome.naver.jp/odai/2141240170638567201)

 息子らが高橋・鵜久森を忘れなかったように、僕は「土佐の怪童」をいつだって忘れませんでしたよ。彼らが優勝したのは僕が高校卒業した春だ。用事があって渋谷へ出かけるのにトランジスタラジオをポケットに忍ばせ、延長13回表に5点挙げた場面を本屋の一隅で密かに聞いて歓喜した。夏は高知県予選で土佐高校に敗れ、甲子園出場はならなかったね。土佐高校の3番玉川は、甲子園で歴代二人目のサイクルヒットを打った。今どうしているんだろう?

 

 ちなみに杉村は、『ドカベン』に登場するサード微笑三太郎のモデルなのだ。見た時それと分かったよ、水島さん。

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 高松商業が決勝に進んだ。

 僕が子どもの頃はまだ一県一代表ではなく、北四国・南四国各一校だった。北四国の決勝は松山と高松で交互に行う。力が拮抗してもいたんだろう、ホームチームが勝つ場合が多かったように記憶する。なので野球どころ愛媛といえども必ずしも毎年は出場できず、そういう年は香川代表を応援した。もっとも、松山の従兄弟たちは香川憎しで、かえって応援しなかったようである。愛媛・香川の角逐には歴史があるらしい。

 何しろこの選抜は愛媛県勢の出場がなく、心安らかに高松商を応援している。四国四商の一とはいえ、松山商業ほど活躍していないと思い込んでいたが、失礼、選抜第一回の覇者だったのね(相手は早実)。二度目の優勝が32回大会(1960年)で、三度目かつ連覇を賭けた33回大会(1961年)は決勝で神奈川の法政二高に敗れた。この法政二高は柴田勲(読売G)を擁し、60年の夏に続く夏春連覇を達成している。つまり33回の決勝は高松商業の春連覇か、法政二高の夏春連覇かという大一番だったわけで、さぞ盛り上がったことだろう。僕も覚えてると言いたいが、4歳ではね。

 法政二高は当時、戦後最強チームとも言われ、61年夏には前人未踏の夏春夏三連覇に挑むが、それを阻んだのが怪童尾崎を擁する浪商だった。このあたり、83年夏に同じく夏春夏に挑んだ池田高校を桑田・清原のPL学園が止めた経緯と重なってくる。

 高松商業は確か、早世した先輩を偲んで、試合前に三塁ベースで円陣を組む習慣があったはずだ。今も引き継がれているかしらん?

Ω