散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

逆説の素直

2016-04-05 11:45:02 | 日記

2016年4月5日(火)

やれやれ、やっと追いついた。

土曜日に池下さんから「はがき詩信」106号送付あり。今朝まで気づいていなかったのである。

  

「少しも弾まない会話に二人は少し安心する」

「相談してもしようがないことだけど ー それなら私も相談してみたい」

逆説って、何て素直なんだろう!

 


母を嗣ぐ

2016-04-05 11:34:01 | 日記

2016年4月4日(月)

午後は土曜の代休で、Sさんと3局。結局は手どころの読み、詰め碁の強いやつが強いのかと少しつまらない気持ちなのは、やはりイ・セドルの件が尾を引いているかな。

長身の若い女性が店番をしていて、「初めまして」と挨拶する。アルバイトかと気にも止めなかったが、なじみ客との会話が耳に入ってきた。

「母はどんなふうに碁を稽古してましたか?」「ええ、来週納骨なんです。」

思わず、じっと顔を見てしまった。僕ら年配の女性の席亭さんが、つい最近まで碁会所を仕切っていた。若い女性留学生らが碁を打ちに来て、インドのオーストラリアのと話題になったのが暮れの12月23日、この時は変わったところもなく僕も会話している。その後、代理らしい男性が代わりを務めるようになっていたが、3ヶ月かそこらの間に亡くなっていたなんて。

「私が跡を継ぐことになりました。」と聞かれるごとに答える姿が、高齢男性ばかりのフロアに凜と立っている。これまでどんな仕事をしていたのか、碁の心得もおぼつかないらしく、お母さんの遺品に囲まれてこれから覚えるというふうである。

ありがとう、お母さんは、そんなに頻繁にお茶を替えてはくれませんでしたよ。

また来ます。

Ω


栴檀の双葉

2016-04-05 10:28:11 | 日記

2016年4月4日(月)

立ち寄った次男が、「石丸先生に渡しといて、ってさ」と茶色の封筒をよこした。「誰?」「え~っと・・・」

彼が名前を思い出すより早く、中から出てきたのは・・・

彩り鮮やかな6羽の折り鶴である。ほう、と唸った。

贈り主は教会学校に通っているお嬢さんである。この春から小学校にあがる活発・利発なおしゃまさんで、石丸先生はお気に入りというわけだが、このあたりが実に女の子なのだ。細かな手細工やきれいな彩りへの好み、作品を贈るという自然な発想、このように女性たちは幼い頃から人と結びつき、老いに至るまで人を結びつける。女の子と男の子は、実にまことにまるっきり違った生き物である。

虹の七色とするには一羽足りないが、真ん中に自分を置いて6羽を侍女に従えている図が、ごく自然に浮かんでくる。さて、どうお返事したものだろうか。

そういえばこのお嬢さんは、日曜日の保護者科で皆の取り澄ました発言に不満を漏らしたKさんの娘である。あのときKさん自身は、「自己実現だけのために生きるのではない者」になってほしいと語ったのだ。もどかしいような言い回しだが、大いに思い当たるところがある。どちらを向いても「自分らしさ」に「自己実現」、確かに何かがヘンなのだ。

それにしても鮮やかな自己表現、やっぱりお母さんに似ているかな。

Ω

 


どうしたもんじゃろうのう

2016-04-05 10:00:31 | 日記

2016年4月4日(月)

年度が改まって朝ドラが交代、「びっくりポン」から「どうしたもんじゃろうのう」へバトンタッチということらしい。ずっと見るかどうかも決めてないが、舞台が昭和5年の浜松と聞いて、さしあたり思ったことが二つ。

古橋廣之進 ~ フジヤマのトビウオの、あの古橋 ~ は、あのあたりの出身で、浜名湖で泳いで鍛えたはずだ。昭和3年の生まれとあるから、小橋三姉妹のそのまた少し下ぐらいか。戦後の活躍を並べてみて、面白く感じるところがある。

もうひとつは、これ。

 

徳川家康の例の絵である。

家臣の諫めも聞かず三方原台地上の武田軍団に無謀な攻撃を仕掛け、完膚なきまでに叩きのめされて浜松城に逃げ帰り、その姿を絵に描かせて生涯の戒めにしたとある。老獪・狡猾の評が通り相場の家康を僕は嫌いになれないし、日本史上の傑物の一人だとも思うのは、一つにはこういうところである。

「どうしたもんじゃろうのう」

吹き出しにピッタリではありませんか?

武田の旧臣であって、二度にわたる上田城攻防戦で家康に「どうしたもんじゃろうのう」と嘆かせた真田一族も、これまた日本史上稀代の傑物集団に違いない。

ただ、脚本がね・・・


つまらない日常会話と大いにつまった超常民話

2016-04-05 09:31:16 | 日記

2016年4月3日(日)

 やんちゃなS先生、やんちゃではないが素晴らしくエネルギーのあるT先生、年下の二人との歓談があんまり楽しくて少々過ごし、頭の中が美酒の芳香で朦朧たる朝、保護者科のお勤めである。

 よく使うネタで、「子どもがちゃんと挨拶できるようにしたかったら、どうするのがいいか?」というのがある。

① 「ちゃんと挨拶するんですよ」とくりかえし言って聞かせる。

② 親自身が日頃から挨拶するよう心がける。

 さあどちらでしょうか、二択でといえば、ほとんどの親は②をとる。理屈では分かっているが、実行するのが難しい。ここまでは陳腐な話だが・・・

「最悪なのは、挨拶するよう言って聞かせつつ、親自身はろくに挨拶しないというケースです。この場合こどもは何を学ぶかというと、『なるほど、言ってることとやってることが違っていてもいいわけね』と得心し、そのような親の言行不一致を真似することになるんですね~」

 これは一ひねりかかってるでしょう。反省も後悔もたっぷりこもっている。

 そんな話を仕込んでおいて、今日の車座言いっぱなしは「どんな子どもになってほしいか」というテーマにしてみた。これは僕がバカだったので、これ以上つまらないテーマはほとんど考えることができない。案の定、

 「好きなことを見つけられるように」「自立したおとなに」「思いやりのある子に」「社会貢献できる人に」「正直者に」・・・

 それはそうなるに決まっている。どれも素敵だし本心だろうけれど、ほとんど意味がない。「皆さん、ちょっと「ぶって」ません?」と言ったら、隣に座っていたKさんが「大いにそうだと思います」と憮然たる表情でおっしゃった。ごめんなさい、これは私が失敗したんです。やっぱりアタマ働いてないですね。

***

 夕方、先日の「朗報」に対してT君よりレスあり。

「朗報、感謝です。サイト、見つけました。 

  http://ainucorpus.ninjal.ac.jp/

ロシア人の日本語研究者がリーダー格のようで嬉しいですね。相撲もアイヌ文化研究も支えているのは日本人だけじゃないというのがもっと普通になれば日本の状況は変わるかも。」

 ほんとだね、だけど早速聞いた第一話、『パナンペ、鬼の手から逃れる』ってのは、通俗常識からすると相当ひどい話だね。それで「アイヌ民話は没義道で残酷」などとならないよう願いたい。グリムだって、日本のだって、民話とか昔話ってのはそもそも日常の裏側にするりと入り込む超常のワザなのだ。残酷や不条理はその必然的な副産物、ディズニーとは違うんだからね。

 後で全部、聞いてみよう。

Ω