散日拾遺

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高校三年生/文とか理とかじゃなくてともかく学ぶ君へ

2016-04-08 07:23:17 | 日記

2016年4月8日(金)

 こんな書き散らかしでも、支えにしてくれている人があるからサボらない。その代わり、ゼッタイ約束守ってくださいよ。破ったら承知しないんだからね。

 晴れて4月で高3に進級した三男、その母つながりのラインでは「高校三年生というフレーズに反応した昭和な母たちへ」などと称して画像が流れたりしている。懐かしすぎると申しましょうか。僕?僕は小学校低学年で、漱石の猫が学者や書生を眺めるような気分でおとなの会話を聞いていたかな。高校へ行ける人間の方が少ない時代、地方の中卒者たちの集団就職が都会に労働力を提供していた時代のお話です。

 

 で、この三男が、父親がボケないよう気遣ってくれるのだと思うが、数学の問題で手を焼くと回してくれるんだね。ここでも個性があって面白いのは、次男の場合こういうことがただの一度もなかったということである。自分が解きあぐねた問題を親父に解かれてたまるか、と思っていたかどうか。三男はそのあたりは別のやり方で解消してるんだろう、こだわりなく下請けに出してくれて、おかげで三角関数とか軌跡と領域とか、眩しい青空のような清冽な刺激が脳に加わったりする。すっかり忘れたと思ったものが記憶の底に眠っていて、扉を開くと徐々に解凍される感じでやがて浮上してくる感覚も楽しい。あいかわらず計算は間違えてばっかりだけど。

 朝日新聞、昨7日の「耕論」が『文系で学ぶ君たちへ』というタイトルである。論者は最果タヒ(さいはて・たひ、詩人)、鷲田清一(皆が知ってる哲学者)、ロバート・キャンベル(日本文学研究者 ~ 僕と同い年)の三氏で、それぞれたいへん立派なことを言っている。「危機にあるのは文系学部ではなくて「文化」であり「文」である。」「文化の文に対立するのは「武」。」など、鷲田さんの言葉が例によって歯切れ良い。

 異を唱える訳ではなく僕なりの角度から言い換えようとする時、ポイントは要するに一つで「意味わかんない」のだ。ものを考え学ぶのに「文」と「理」の違いがあるということ、さらにはこの両者を排他的に二分することが、僕にはてんで理解できない。知はひとつ、学は不可分、気どって言い張っているのでなく、分ける理由がまるでまったくわからないのだ。ロジックはロジック、理論をデータで検証するのも同じ、演繹と帰納の往還で物事が進んでいくのもひとつである。みんな何を言ってるんだろう?

 次男の学校の保護者会関係者と、電車の中で雑談したことを思い出す。この人が、「物理学とりわけ素粒子論と経済学は似ている」と言ったのだ。前者は対象が小さすぎ、後者は大きすぎるので、直接観察することができない。なので複数の仮説を立て、データで検証してより正しそうな仮説を選択していくというやりかたをとる。こうして不可視の対象から見える形を彫り出すプロセスが、よく似ているというのである。

 ハイゼンベルクとケインズなんかをこもごも思い浮かべ、なるほどなあと感心したものだ。この人のこういう素敵なセンスは理系的ですか文系的ですかって、質問の意味がないでしょ?

 敢えて「文・理」のステレオタイプを使っていうなら、医者の仕事は人が思っているよりはるかに「文系的」なものだ。だから、理数系の秀才が能力の証明として医学部を狙ったりするのは、基礎医学方面には追い風になるかもしれないが、バランスの取れた医師(サービス業!)を供給する意味では何の足しにもならない。ただし、それならいわゆる文系志望者がいわゆる理系志望者よりサービス業(本当の意味での)向きかというと、必ずしもそうでもないのが難しい/面白いところである。霞ヶ関や永田町の住人は圧倒的に「文系」が多いわけでもありまして。

 昨夜の三男からのチャレンジが案外すっきり解けたので、今朝は気分良いのだった。

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