2016年5月1日(日)
何しろ美しい季節である。
柔らかな緑があたり一面を覆っている。朝起きてガラスを開け正面に見える西の庭は、正面にオオデマリ左手にコデマリ、いずれ劣らぬ大小の純白がくっきり空中に浮かんでいる。石とツツジの多い庭で、桃色、白、赤、思い思いに咲き乱れている。前庭の東南隅に桜が5~6株、ソメイヨシノではない地味な花だが、小さなサクランボをたくさんつける。27日(水)に着いたときには完全保護色の薄緑で、よく見なければ分からなかったが、日ごと鮮やかに色づいてさながら宝石のよう。歩調を合わせるようにウグイスも日を追って上達の喉を聞かせている。
中庭の入り口にぼんやり立っていると、どこかから「ワ~ン」というような低い唸りが聞こえている。機械音のようでもあり、巣に群れる蜂の羽音のようでもあり、遠く微かながら途切れることのない連続音である。音源を探して右左をくまなく見回し歩き回り、やがて青空を振り仰いでどうやら見つけた。音源は頭上の樹冠である。
何の木だろう、ずっと前に「タイサンボク」と教わったような気がするが、花がまるで違う。卒業した高校の校章にもなっていたほっこりした大輪とは違い、地上3~4mほどの高さにこんもりと生い茂った樹冠の外側に、白い小さな花が無数についている。そこに大小の昆虫がそれこそ数限りなくとりついて、てんでに蜜を吸っているようなのだ。蜂やアブの類いのようだが肉食のアシナガバチの姿はなく、僕にはとても特定できない多彩な大きさと種類の顧客が、互いに争う様子もなくそれぞれの作業に励む、それらの羽音が総体として「ワ~ン」というひとつの唸りになっているのである。
(↑ 写真がヘタクソなのだ。写っている樹冠は地上3m余である。拡大してみると、黄色みがかった花房に蜂やら羽虫やらがとりついている姿が、この1枚の中にもかなりたくさん数えられる・・・はずである。)
そういえば名を知らぬこの木は、夏になると木肌にセミが引きも切らずにとりついて、とがった口吻を刺しこんでいる。樹液がよほど美味しいのであろう、それと蜜の美味との関連は僕には分からないが、何しろ途方もなくたくさんの命をこの一本の木が養っている。驚くべきものだ。
「生命樹」ということを思った。そのような信仰が世界各地にあって、何の不思議もない。
(『世界樹木神話』ブロス/藤井他 八坂書房 )
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こんな日なのに、あるいはこんな日だからか、訃報が画面に2件続けて現れた。
ひとりは ~ 実名でもよいかと思うが Wikipedia にはまだ反映されていないので念のため控える ~ 精神分析の領域で広く知られたM先生である。先生が主宰される精神療法研究グループのMLで回ってきた。
弟子筋の人々が周りを大勢固めており、僕は紹介論評する立場にない。ただ、言ってみたいことは、なくもないのである。
ごく簡略に済まそう。M先生御自身に対して「言いたいこと」は、基本的に称揚と感謝に尽きる。自由人であり、時流におもねることなく言いたいことを言い、行動したいように行動なさっていたと思う。何より好感を抱いたのは、分析という取り扱い重大注意のツールを自らの防衛や合理化のために使うところが、皆無といわないにしてもきわめて少なかったことだ。その正反対の自称「分析家」たちが、分析そのものを内側から台無しにしながら臆面もなくそこらをのし歩く姿を、イヤというほど見てきている。M先生は腹が立てば単純に怒ることのできた人で、妙な理屈でそれを合理化する必要もなければ嗜好もなかった。
要は分析家にしては珍しく朗らかに風通しのよい人で、亡くなられたことが珍しくも素直にさびしいのである。人生のもっと早い時期に出会っていたら、深い関わりを与えられることになったかも知れない。
もうひとり、こちらは実名を記すことができないし、記したところで世間一般には何の意味もない。たいへんな読書家・博識家であり、教会でたいへんお世話になった。それだけにある時期以降の関わりについて、不本意の思いを禁じ得ない。といっても、僕の側でできることは何もなかったのだけれど。
「主は与え、主は奪う/主の御名はほむべきかな」(ヨブ記 1:21)
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