散日拾遺

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「腐敗卵臭」の誤解と正解 ~ 国試問題から

2016-05-11 07:32:49 | 日記

2016年5月11日(水)

 医師国家試験の過去の出題から(一部改変):

 当直中に病院職員から電話があった。「帰宅したら,自宅の浴室に目張りがされており,浴室から卵が腐ったような臭いが漏れ出している。浴室では弟が倒れているようである。119番には既に通報した」という。

 適切な指示はどれか。

A: 弟を浴室から連れ出す。

B: 浴室の換気扇を回す。

C: 弟の心肺蘇生を始める。

D: すぐ現場を離れる。

E: 臭いの発生源を確認する。

***

 正解は分かっている。ただ、その通りにできるかどうか・・・

***

 医学評論社「国試109─109回医師国家試験問題解説書」から転載する(一部改変)。

 正解は「すぐ現場を離れる」

 弟が硫化水素を発生させ自殺を図ったものと考えられる。一般人の自殺に用いられるガス状毒物は限られており,硫化水素と一酸化炭素しかない。一酸化炭素ガスは無色無臭,無刺激性であり,腐敗卵臭を呈するのは硫化水素である。

【すぐ現場を離れる:○】 消防署へは通報済みであり,発見者自身が中毒患者にならないよう,すぐに現場を離れる。可能ならば発見者の携帯電話番号メモを,現場に残しておくとよい。

【浴室の換気扇を回す:×】 浴室内の有毒ガスが浴室外に排出され,換気口周囲に汚染が拡大し,中毒患者発生を招く危険がある。

【その他選択肢:×】 発見者自身の生命が危険にさらされるため,禁忌である。

***

 念のために付記するなら、硫化水素は一般に思われている以上に毒性が強い。40年近く前にこれを教えてくれたのは予備校の化学の教師で、「青酸ガスと硫化水素とどっちが毒性が強い?」という形で問を投げかけたのだ。青酸ガスとはシアン化水素のこと、アウシュヴィッツで常用された例の殺人ガスである。アメリカでも死刑に用いられていたが、使用後の清掃・洗浄にコストがかかる(!)などの理由で今は使われていないらしい。この「凄惨」ガスに引き比べ、硫化水素のほうは温泉でもしばしば臭いを嗅ぐほどの親しみがあり、そうしたイメージが事実を誤認させる。

 シアン化水素は 5,000 ppm (0.5%)をやや下回るレベルで致死的となるのに対し、硫化水素は 1,000-2,000 ppm (0.1-0.2%)で人をほぼ即死させるという。さらに低い濃度で例の腐敗臭を発するため人が近づかずに済むのだが、シアン化水素のように無臭であったら温泉大好きの我ら日本人にはよほど深刻な脅威になったに違いない。現実にも、スキー客が臭いを感じる前に高濃度の硫化水素中に突っ込んだケースなどが過去にあったと記憶する。このように、硫化水素はきわめて強力な毒ガスなのである。

 都市部での事故の場合、救助しようとした人間が巻き込まれたり、階下の住民が巻き添えとなったりした事例が現に報告され、上記の出題もそれを踏まえている。近年の事故の増加はこの種の情報のインターネットへの露出が一因と指摘されるから、当ブログがそれに加担することのないよう少々書き方を工夫した。

 それはさておき「正解」について。「直ちにその場を離れなさい」「弟が、すぐそこで倒れてるんです!」というやりとりが容易に浮かぶ。20代の頃はプールで2分間潜水することができた。2分あれば息を止めて硫化水素を吸うことなく、弟を引っ張り出せるかもしれない。僕だって ~ 一人っ子で弟はいないが ~ そう考える。人情というものである。しかし正解は正解、人情に殉じるなら正解を知ったうえでのことでなければならない。

 硫化水素ほど明確ではない形で、この選択は案外日常的に僕らに突きつけられている。

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