散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

振起日の礼拝説教

2020-09-07 12:54:14 | 日記
2020年9月6日(日)
 "God" を「神」と訳したことがそもそもの間違いだったとは、以前から聞かされてきたところである。「八百万の神々」だの「神対応」だのといった、出来合いの卑近なイメージに "God" が引き寄せられ、どうしてもそこから抜け出せない。
 仏教は多神(?)教であるだけに、宇宙を体現する大日の広大無辺、56億7千万年後を指し示す弥勒の永劫、森羅万象の隅々まで浸透する地蔵の慈悲の無尽蔵まで、居並ぶ如来や菩薩のそれぞれが多様な姿で「無限」を証しして尽きるところがない。いわばそのすべてを一身に具現するヘブライズムの "God" は、大日・弥勒・地蔵その他諸々に一者で拮抗するというのだからたいへんなもので、われら日本人の親しく知る神(々)とは隔絶していなければ話がおかしい。

 韓国・朝鮮ではどうかというに、こちらは하나님(ハナニム)という言葉を充てている。

  하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작은 이러합니다.
 「神の子イエスキリストの福音のはじめは、このようであった。」(マルコ 1:1)

 辞書によれば 하나님 は「キリスト教の信仰の対象たる唯一神、天の神」などとあり、もっぱらキリスト教のそれを意味するものとして造語されたもののようである。初学者の恐いもの知らずで推量するなら、「하나」は「一つ」、「님」は「様」にあたる敬称だから、「ただ一人の貴い存在」ぐらいの感じだろうか。少なくとも、半島の人々が古来たいせつにしてきた祖霊などとは、まるで違う方向を向いている。それが賢明だったのかも知れない。
 「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳した本邦先人の苦心が偲ばれるというものである。

 マタイ福音書5章、いわゆる「山上の説教」の冒頭が今日のテーマ。「幸いである」と訳されるのが常だが、原語は感嘆文であることに説教者が注意を喚起する。
 「何と幸いなことか!」
 実はこれが詩編の筆法なのだとも。

 もう一つ、「心の貧しい人々は」「悲しむ人々は」「柔和な人々は」と三人称で告げられていく祝福が、末尾で突然、二人称に変わる。
 「あなたがたは何と幸いなことか!」
 何が?
 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」・・・!
 ここに至って「あなたがた」が明示的に正面に据えられる。「あなたがた」とは誰のことか、実際にイエスを取り巻いていた人々か、マタイが読者として想定した人々か。むろん、あらゆる時代のすべての読者が潜在的に「あなたがた」であることは間違いないが、それにしても。
 とりたてて罵られることもなく、迫害されもせず、身に覚えのない悪口を「彼」のために浴びるでもない、この身の幸いはどこにあるか?
 
 Ω