散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

熊本で震度7 / 「信じる」vs「愛する」

2016-04-15 07:45:49 | 日記

2016年4月15日(金)

 「忘れた頃にやってくる」というフレーズではいろいろ言葉遊びができるんだが、今朝は自重しておく。昨夜は東京でも一瞬ながら妙な揺れ方をした。震源は遠いが大きいぞと思われたので、朝になって松山に電話してみたら、意外にも両親は気にも止めなかったという。

 地震では早い縦波が先行し、遅い横波が遅れて伝わる。そのズレが距離に比例して大きくなるから、遠くの方が小さくても長時間揺れるということがある。近い松山では揺れの時間が短く、それで気にならなかったのかもしれない。

 昨日はFさんが無事にやってきて、人生のほぼ半分について語っていった。他人のことはよく見えるが、自分自身に重ねてみれば笑うことも詰ることもできはしない。「人を信じるとはどういうことか」と問いかけられた。そういういえば聖書には、不思議にそういうフレーズがない。信じるのは神であって、人は愛するものである。神を愛するということはあるが、人を信ぜよとは書かれていないように思う。これ実は非常に大事なことではあるまいか。

 人を信じるとはどういうことか、人の何を信じるのか。素朴な難問である。

 

 帰宅後に稲田先生からコメントをいただき、ついで阿部美香さんからコメントをいただいた。覚えていますとも、私から見て右手に座っていらして、活発に発言なさった方ですよね?お便り、どうぞ放送大学宛てにお送りください。フレックスな職場なので受け取るまで少し時間がかかりますが、確実に届きますので。

 3.11も金曜日だった。今日、皆が無事でありますように。

Ω

 


コメント御礼 ~ まだお目にかからない稲田先生へ

2016-04-14 19:30:49 | 日記

2016年4月14日(木)

・コメントが届いた記事: 訃報: 斉藤仁、陳舜臣、少し戻って丸田俊彦

・コメントが届いた記事のURL: http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/6ba750d5f51f01729442c7f6be227bfa

・コメントを書いた人: 稲田

・タイトル: どおりで。

・コメント:

 丸田先生のことが気になって検索したら、先生のブログにたどりつきました。私は緩和医療に身をおく内科医です。丸田先生の著書「痛みの心理学」を読んでファンになり是非ご本人にお会いしたいと思って、生まれ故郷の須坂市で講演されると聞きつけて参加したことを思い出します。本にサインを頂きながら、先生にご相談させていただける機会はあるのかとずうずうしく質問した際に、オブザーバーになっているからその病院にでもこれば、というようなお話でしたがかなわず。ちょうどホスピス医になったばかりのころでした。メイヨクリニックで教授されていたのに、帰国後の日本での活動は学会での講演ぐらいしか拝聴する機会ぐらいしかなく残念に思っていましたが、、、もうお亡くなりになっていたとは本当に驚きました。どうりであまり活動がなかったのだとわかりました。

 サインしていだいたあの本は宝物になりました。

 今はがん性疼痛中心の診療から、慢性疼痛が主になってきました。愛情希薄なアスペルガー夫に愛を求めるカサンドラ症候群でhighly sensitive personの妻の構造を、前にいた精神科医に分析していただき、これまで見てきた彼女の行動が理解できました。夫婦や家族、友人関係などお互いに振動しあう精神構造に興味をもっています。今後は精神科の学会(さしあたっては浜松の精神病理)にも参加しようと考えています。

 お礼をしようと書き出しましたが、長くなりました。丸田先生の情報ありがとうございました。

 またたくさんにブログを発表してください。

***

稲田先生:

 コメントありがとうございます。

 私自身が丸田先生を知ったのも講演会の席でした。医者になって間もない頃、当時働いていた福島県郡山市で丸田先生の講演会が開かれ、先輩精神科医に連れられて出かけたのです。境界性パーソナリティを中心としたパーソナリティ障害についてのお話で、スポンサーの配慮でしょう、来聴者に『痛みの心理学』が配布されました。私も先生のようにサインをいただいておくのでした。パーソナリティに関してこれほど歯切れ良くまとまった本は、成田善弘先生のものを別にすればあまりないように思います。

 帰国なさった丸田先生とは、狩野先生など慶応グループの研究会などで何度かお目にかかりましたが、私自身が精神分析に対する興味(というより精神分析家に対する親近感)を失って遠ざかっている間に、訃報に接した次第でした。

 フロイトを引き合いに出すまでもなく、痛みと対象喪失は精神分析および精神医学の根源的なテーマです。その意味で稲田先生の足どりや日頃の御活動ぶりに大いに関心をそそられます。

 私は怠け者であまり学会には出ませんが、機会がありましたらぜひお目にかかっていろいろ御教示をいただきたく存じます。どうぞお元気でお過ごしください。

 取り急ぎ御礼まで

石丸 拝


祝福せよ

2016-04-10 22:12:43 | 日記

2016年4月10日(日)

 χαιρειν μετα χαιροντων, κλαιειν μετα κλαιοντων.

無粋を承知でカタカナで書けば・・・

「カイレイン・メタ・カイロントーン、クライエイン・メタ・クライオントーン」

χα も κα も「カ」と書き、ρ と λ を区別しないという具合だが、致し方もない。リズミカルで歯切れが良いく、韻文的な要素があることを記しておきたいのである。つまりこれが、

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」(ロマ 12:15)

の原文である。

その前節は下記。

 ευλογειτε τους διωκοντας υμας, ευλογειτε και μη καταρασθε.

「迫害者を祝福せよ、呪うのではない、祝福するのだ。」(ロマ 12:14)

まったく、何という教えだろう。何とむちゃくちゃで、そして不思議な魅力のあることだろう!

人間にはできないって?

そうでもないらしい。自分の体に3発の銃弾を打ち込んだ相手を、今際の際に祝福した(少なくとも赦した)人間が一人はいた。一人いたなら、他にもいたことだろう。


共に喜べ、共に泣け

2016-04-10 09:25:57 | 日記

2016年4月10日(日)

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け。」

これもまた、祖父の遺品と思われる日めくりカレンダーの効用で、いつの間にか覚えてものである。ロマ書12章15節、パウロという人物の複雑な豊かさを思わされる、使徒書屈指の名言である。

今日流に言うなら、これは共感というより同情のススメ、まさしく「感情を同じくせよ」という勧告である。臨床心理学ではしばしば警戒されるところで、共揺れしてしまっては援助にならない、あたかもその人自身のごとくに感情を追体験しつつ、あくまで微妙な一線をこれと画すことを教示し指導する。

尤もではあるけれど、いつもわずかばかりの違和感が残る。同情する能力をもたない欠格者が、しばしば言い訳に「同情ではなく共感を」と言ってるのであるような。同情もできない人間に、理屈っぽい共感だけを返されて、いったい何が嬉しいだろうか。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け。」

パウロがそう言うのである。

 

ちなみにこれに先行する14節が恐ろしい。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」

教会から戻ったら、ギリシア語原文を確認しよう。

Ω

 

 


高校三年生/文とか理とかじゃなくてともかく学ぶ君へ

2016-04-08 07:23:17 | 日記

2016年4月8日(金)

 こんな書き散らかしでも、支えにしてくれている人があるからサボらない。その代わり、ゼッタイ約束守ってくださいよ。破ったら承知しないんだからね。

 晴れて4月で高3に進級した三男、その母つながりのラインでは「高校三年生というフレーズに反応した昭和な母たちへ」などと称して画像が流れたりしている。懐かしすぎると申しましょうか。僕?僕は小学校低学年で、漱石の猫が学者や書生を眺めるような気分でおとなの会話を聞いていたかな。高校へ行ける人間の方が少ない時代、地方の中卒者たちの集団就職が都会に労働力を提供していた時代のお話です。

 

 で、この三男が、父親がボケないよう気遣ってくれるのだと思うが、数学の問題で手を焼くと回してくれるんだね。ここでも個性があって面白いのは、次男の場合こういうことがただの一度もなかったということである。自分が解きあぐねた問題を親父に解かれてたまるか、と思っていたかどうか。三男はそのあたりは別のやり方で解消してるんだろう、こだわりなく下請けに出してくれて、おかげで三角関数とか軌跡と領域とか、眩しい青空のような清冽な刺激が脳に加わったりする。すっかり忘れたと思ったものが記憶の底に眠っていて、扉を開くと徐々に解凍される感じでやがて浮上してくる感覚も楽しい。あいかわらず計算は間違えてばっかりだけど。

 朝日新聞、昨7日の「耕論」が『文系で学ぶ君たちへ』というタイトルである。論者は最果タヒ(さいはて・たひ、詩人)、鷲田清一(皆が知ってる哲学者)、ロバート・キャンベル(日本文学研究者 ~ 僕と同い年)の三氏で、それぞれたいへん立派なことを言っている。「危機にあるのは文系学部ではなくて「文化」であり「文」である。」「文化の文に対立するのは「武」。」など、鷲田さんの言葉が例によって歯切れ良い。

 異を唱える訳ではなく僕なりの角度から言い換えようとする時、ポイントは要するに一つで「意味わかんない」のだ。ものを考え学ぶのに「文」と「理」の違いがあるということ、さらにはこの両者を排他的に二分することが、僕にはてんで理解できない。知はひとつ、学は不可分、気どって言い張っているのでなく、分ける理由がまるでまったくわからないのだ。ロジックはロジック、理論をデータで検証するのも同じ、演繹と帰納の往還で物事が進んでいくのもひとつである。みんな何を言ってるんだろう?

 次男の学校の保護者会関係者と、電車の中で雑談したことを思い出す。この人が、「物理学とりわけ素粒子論と経済学は似ている」と言ったのだ。前者は対象が小さすぎ、後者は大きすぎるので、直接観察することができない。なので複数の仮説を立て、データで検証してより正しそうな仮説を選択していくというやりかたをとる。こうして不可視の対象から見える形を彫り出すプロセスが、よく似ているというのである。

 ハイゼンベルクとケインズなんかをこもごも思い浮かべ、なるほどなあと感心したものだ。この人のこういう素敵なセンスは理系的ですか文系的ですかって、質問の意味がないでしょ?

 敢えて「文・理」のステレオタイプを使っていうなら、医者の仕事は人が思っているよりはるかに「文系的」なものだ。だから、理数系の秀才が能力の証明として医学部を狙ったりするのは、基礎医学方面には追い風になるかもしれないが、バランスの取れた医師(サービス業!)を供給する意味では何の足しにもならない。ただし、それならいわゆる文系志望者がいわゆる理系志望者よりサービス業(本当の意味での)向きかというと、必ずしもそうでもないのが難しい/面白いところである。霞ヶ関や永田町の住人は圧倒的に「文系」が多いわけでもありまして。

 昨夜の三男からのチャレンジが案外すっきり解けたので、今朝は気分良いのだった。

Ω