散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「セウォル」の意味

2017-06-22 15:00:00 | 日記

2017年6月21日(水)

  思うだにつらい悲劇から早くも3年経ち、ふと「セウォル」とはどういう意味か知りたくなった。「ウォル 월」には「月」という意味がある ~ 一月、二月の月である ~ が、これと関係あるものかどうか等。

 辞書を手にしてからインターネットの方が早いかと思いつき、検索してみると案の定、気になった人は大勢いるのである。一つは御存じ「知恵袋」で、こんなやりとりが残っている。

【質問者】 ハングルで「セウォル」とはどういう意味ですか?

【ベストアンサー】  漢字の「歳月」を韓国語読みにしたものが「세월(セウォr)」です。

 なるほどそうなのかと納得しかけたが、何とはなしに別のサイトを見てみると・・・

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「世越号、SEWOL号」

 大韓民国の清海鎮海運が所有する韓国旅客船の船名。韓国語で「世越(セウォル)」は「世俗を超越する」の意味。「救援派(キリスト教福音浸礼会)」の教義に由来する。韓国語の「歳月(セウォル)」とは異なるので注意。

(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%A6%A5%A9%A5%EB%B9%E6)

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 これだから情報は怖いのだ。セウォルを「歳月」(のみ)と思い込んだところで特段不都合は生じまいが、こうしたことが積み重なって大きな誤解が生じることは往々にしてある。

 念のために言えば、知恵袋の解答は決して間違っていない。質問者は「セウォル号の船名はどういう意味か?」と訊いたのではなく、「韓国語でセウォルとはどういう意味か?」と訊いているのだから、同音異義語中もっとも頻度が高いであろう「歳月」と答えるのは、至ってまっとうな答えである。(「ハングル」は「アルファベット」と同じく文字種を指す言葉だから、ほんとうは質問者の用語法が間違っている。)あるいは韓国人の中にも、誤解があったりしないだろうか。だから漢字を使い続ければいいのにとは、いつも思うことである。

 それにしても、セウォル号は世越号だったのだね。救援派なるものの教義が、なぜ船名に用いられたのだろう?また別の関心が蠢動し始める。

Ω


名曲『夏は来ぬ』

2017-06-22 12:00:00 | 日記

2017年5月16日(火)・・・てっきり投稿済みと思い込んで、5週間もほったらかしてあった。

 先週の土曜日(5月13日)に北千住の家族会で話す機会があった。会の始めに皆で一曲歌うのが約束事であるらしく、そのための楽譜を選んでクリアファイルに収め、人数分用意してある。好もしい準備の良さである。僕にもポンと一冊渡され、司会者がきびきびと「『夏は来ぬ』行きましょう」と宣言する。誰かのハミングで音を決め、考える間もなく歌い出した。

 名曲として名高く「夏〜は〜き〜ぬ〜」というメロディはCMでも使われ、もちろん曲の存在は知っているけれど通して歌ったことがない。初めて歌って、歌詞の美しさ懐かしさに心洗われる思いがした。もっとも、若い人々には解説が必要かもしれない。世代・年代のこともあるけれど、田園生活への理解がないと共感もできず面白くもないはずだ。そういう意味で、かつての名曲の多くがここ数十年の間に一挙に古文書と化しつつある。海外でも歌われる『ふるさと』にしてからが、「ウサギ追いし/小鮒釣りし」「山は青き/水は清き」田園風景を知らなければ、遠い異次元世界のおとぎ話としか思えまい。

 歌いながらふと目を落とすと、フロアで使われている椅子のすべてがテニスボールを靴に履いている。東京の一画で人工物を工夫して使いながら、田園の夏に想いを致す。小さな組織に集う人々の日常が窺われる。
 

 

歌詞 『夏は来ぬ』

 

卯の花の 匂う垣根に

時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて

忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

 

さみだれの そそぐ山田に

早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして

玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

 

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の

窓近く 蛍飛びかい

おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

 

楝(おうち)ちる 川べの宿の

門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して

夕月すずしき 夏は来ぬ

 

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい

水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて

早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

 

http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_sengo/se5_natu_kinu.htm

Ω


いきていてこそ

2017-06-22 06:11:44 | 日記

2017年6月21日(水)

 この度はめでたく実名で書くことができる。
 日曜日に久々の来信あり、高校のクラスメートのお嬢さんである堀江菜穂子さん、その詩集が発売になった。

  堀江菜穂子 『いきていてこそ』 サンマーク出版

 あわせて下記の動画、必見である。
 https://www.facebook.com/ikiteitekoso/

 他言歓迎、多言は無用。多くの人々の目に止まりますように!

  

Ω


余得 ~ しまなみ海道一望

2017-06-21 16:42:52 | 日記

2017年5月23日(火)

 帰途の眺めに余得あり。北九州空港を飛び立った飛行機が瀬戸内海の南寄りを東行してくれたおかげで、しまなみ海道を見下ろすことができた。松山からの便はもう少し南を通るうえ、出発直後の上昇中/到着直前の下降中で、いつもよく見えないのである。

   

 座席は翼のほぼ真横、橋は細い糸のようで見えづらいが、海域全体がほとんど島でふさがっている芸予諸島の奇観は隠れもない。

 A: 伯方・大島大橋、B: 大三島橋、C: 多々羅大橋  ( ↓ 左から順)

   
 (http://www.jb-honshi.co.jp/shimanami/)

Ω

 


小倉有情

2017-06-21 12:14:57 | 日記

2017年5月23日(火)

 ようやくここにたどり着いた。これはどうしても書いておきたかったので。

 倉成さんたちと懇親の翌日、午後の便を待つ半日を使って小倉を訪ねてみた。両親は約60年の昔、博多に3年間住み、長崎など旅行しているが小倉は行かなかったという。博多と小倉は50kmほどの距離で知人もおらず、赤ん坊を連れてわざわざ出かけるには微妙な遠さだったかもしれない。今は近くなった。「新幹線で20分です」と被爆二世さんがおっしゃるとおり、わずか17分で小倉駅に降り立つ。遠賀川を越え、従姉弟らの住む直方(のおがた)のすぐ脇を通ったが、感慨にふけるゆとりのないのは便利の代償。

 小倉は本来、第二の被爆地になるはずだった。1945年8月9日朝、小倉の空が曇りであったために米軍が予定を変更し、長崎に向かったのである。落とす側にとってはどこでもよく、落とされる側では運命が分かれた。

 20日の晩に歓待してくれたO君が、北九州出身の長崎在住であることを書いた。彼のお祖母さまは小倉の人だったから、曇天のおかげで命拾いした。いっぽうO君の奥さんは長崎の人、そのお祖母さまは戦時中、勤労動員に出ていたが、たまたま体調を崩し友人に勤務を代わってもらった。友人は造船所で爆死した。

 運命のアヤで被爆を免れた者の孫同士が家族を営み子を生す、与えられる命をあだやおろそかに扱うまいと、先にO君が書き送ってくれた。若い人たちからこういう言葉を聞くのが嬉しくありがたい。そんなこともあり、広々して広すぎない小倉の穏やかな町並みが、幻の被爆地とばかり感じられて仕方ないのである。

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 駅から小倉城は2km足らず。時間はあるのでもちろん歩く。駅正面から伸びるのは平和通り、ほどなく右へ折れ、紫川の手前で川向こうの小倉城が突然目に入る。一度しか味わえない初見参の楽しみ、大きすぎない城の個性を探して、信号待ちの間に立つ位置を変えてみたりする。

 平和通り      お城出現

 川にかかる太陽の橋、おそらくこのあたりが投下の目印でもあったろうか。広島は二回りほど大きいが、いずれも河口の三角州を利して築かれた城下町で、どこか似通って感じられる。その朝が晴天であったら、紫川は太田川同様に水を求めて亡くなる人々で溢れたことだろう。ウラン型リトルボーイの熱線に対し、プルトニウム型ファットマンはケタ外れの爆風を特徴とした。直近の小倉城天守は耐え得たかどうか。「平和通り」の名までもが、想像上の痛みをかきたてる。小倉に代わって長崎で現実となった痛みである。

   紫川の川面      太陽の橋

  小倉城天守閣、背後の近代的なビルが無粋なことと、観光客の勝手な言い分。

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 慶長7(1602)年に細川忠興の築いた小倉城は、下って戊辰戦争の舞台のひとつになった。小倉城が長州征伐の拠点だったのは、地の利を考えても頷かれること。実際、小倉藩と熊本藩はここを拠点に奮戦したが他の九州勢は総じて戦意が低く、さらに長州勢が門司を制圧するや、征長総督の老中・小笠原長行があっさり戦線離脱したため、九州諸藩が軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2(1866)年8月に小倉城に火を放って退去のやむなきに至る。総大将の戦線離脱は、来たる鳥羽伏見の戦での将軍・慶喜のそれを予感させる。負けるはずのない戦いをひたすら負けに誘導した幕軍の奇妙な動きについて司馬遼太郎がいろいろと書く中で、特に『花神』は小倉口の戦に触れていたように記憶する。

 小倉城に数々の別名がある中で、鯉ノ城とあるのが目に止まった。広島城の別名もまた鯉城(りじょう)、広島カープの名の由来である。どうもこの度は、この連想が頭を離れない。ちょうど長男は学会かたがた広島を訪れており、次男は生徒を引率する下見のためにまもなく同地を訪れる。息子らが何を見てどう感じるだろうか。見下ろせば堀に鯉、シャチホコの脇に肉眼では鮮やか、写真でもどうにか確認できる。

Ω