散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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まぼろし

2019-03-25 23:42:14 | 日記
2019年3月20日(水)
 まぼろし もろぼし おぼろぼし

 まぼろし、という言葉の由来が気になって。
 ま(= 目)+ おぼろ、ということらしい。

 目のあたりに浮かんでいながら、輪郭鮮明に見きわめられないものが「まぼろし」か。
 「今は、鏡を映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(第一コリント 13:12)
 しかしまた、
 「幻なき民は滅ぶ」(箴言)
 のでもある。

 明瞭に見えていないことが、不完全や欠損の徴であるとは限らない。おぼろだからこそ想像力が喚起され、見ようとする意志が動員される。全盲の人々は春の陽光を肌で見、花々の色あいを大気に観ずる。晴眼者こそ見ていないということがある。

 何もかも、おぼろでもどかしいこの日頃、実は恩寵の春到来か。

 広島県竹原市産、涼味驚くべし。goo ブログのシステム改造あり?画像を縦置きにできない・・・(T_T)
Ω
 


朧月夜

2019-03-25 23:42:14 | 日記
2019年3月20日(水)
 奇しくも誕生日に郷里へ移動。一面の菜の花が迎えてくれた。それで思い出すのは同じ時期に松野町へ招かれた時のこと。あの折りは松山から宇和島へ向かう予讃線脇の土手を、どこまで行っても菜の花の黄色が埋めつづけ、桃源郷へエスカレーターで運ばれる心地がした。
 ⇒ 桃源郷/予讃線有情 2015-03-24 

 今回は私的な事情による帰省で、つれあいが同行している。迎えの車が松山市内を抜けて目の前に菜の花畑が広がった時、申し合わせたように鼻歌をさえずり始めた。同様に反応する人は多いはずで、そのぐらいこの歌は人口に膾炙している。
 天然の雅びとでもいおうか、風景とメロディ・歌詞がよく通い、どれかがはみ出すとか不足をきたすとかいうことがない。風景を見れば自然に口ずさみ、口ずさんでは風景を思い描く、こういうのを名曲と呼ぶのである。

菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し

 ネットには、この歌詞の「現代語訳」が掲げられている。この程度の古風に訳や釈が要るというのが脱力源だが、そういえば「山の端」という言葉は、定番『春は曙』の解釈で「山際 = 山に近い空の部分」「山の端 = 空に近い山の部分」と教わって知ったのだし、「におい」は菜の花の香ではなく月の色合いであること(cf. いろはにほへと = 色は匂えど)も注記があってよいか。
 こういったことこそ小中学校で教えるにふさわしい。中途半端な英語をその前にもってくるなんて、正気の沙汰とも思えない。
 ・・・などと偉そうに書いたが、この歌に二番があることを今日はじめて知った。一番の自然から転じて二番の人里へ、その全体を菜の花の春が朧に覆っている。

里わの火影(ほかげ)も 森の色も 田中の小路を たどる人も
蛙(かわず)のなくねも かねの音も さながら霞める 朧月夜

 柔らかな響きの副助詞「も」を5回重ねて、結句の体言止めへと盛り上げる組み立て。「たなか」と「たどる」、「かわず」と「かね」、こなれた頭韻も好もしい。

 最後を締める「朧月夜」は、もちろん「おぼろづきよ」と読むのだろうが、「おぼろづくよ」とひねってみたらどうだろうかと、こちらもほろ酔いの気分。人も言葉も風景も、菜の花に酔って夢幻の境にある。

 作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一、1914(大正3)年、『尋常小学唱歌 第六学年用』に初めて掲載されたそうだ。このコンビは他に『故郷(ふるさと)』『春が来た』『春の小川』『紅葉(もみじ)』などを生んだとあり、国民文化への貢献は甚大である。後述のプロフィルからも窺われるように両者の出自や背景はほとんどかけ離れており、その組み合わせから多くの名品の生まれたことが、興味深いとともに教訓的でもある。
***
高野辰之(1876-1947)長野県出身、国文学者・作詞家。

岡野貞一(1878-1941) 鳥取県出身、作曲家。鳥取教会で受洗したクリスチャンであり、本郷中央教会で約40年間オルガニストをつとめ聖歌隊指導にあたった。(『水師営の会見』もこの人の作曲だと!)
Ω

さようなら

2019-03-24 05:34:28 | 日記

2019年3月11日(月)

 チコちゃんが急速に劣化してると感じるのは僻目かしらん、初めは痛快だった言葉の荒さが次第に耳に障り、いささか残念な今日この頃。

 先日は「さようなら」とはそもそも何がどう「さようなら」なのかという、さほど新しくもないテーマが取り上げられた。見ていて逆に新しく感じたのは、このテーマなら絶対出るぞと予測され、事実ある時期までは決してはずされなかっただろう逸話に、一言の言及もなかったことである。

 そうなると、書きとめておきたくなるもので。

 アン・リンドバーグ(Anne morrow Lindberg, 1906-2001)、大西洋無着陸飛行で有名なチャールズ・リンドバーグ(1902-74)の妻で自身も飛行家だが、むしろ『Gift from the Sea 海からの贈り物』に代表される文筆家として知られる。1931年には夫婦揃って日本に飛来し、国後島・根室・霞ヶ浦・大阪・福岡などを訪れている。後日その手記が『North to the Orient 翼よ、北に』と題して刊行された。

 その中に「さようなら」に関する有名な記述がある。以下、論評抜きに転載しておく。著者の語源理解が誤っているとの指摘もあり、チコちゃんのスタッフもそれで採用しなかったのかもしれないが、仮にそうだとしてもなお興味深い。日本人として、知っておいて損のないことでもある。

 日本語訳については、ネット上に出ているものの中に明らかな誤りが散見されるため、拙速ながら私訳を付けてみた。このままでは恥ずかしいので、追々修正していく・・・かもしれない。

***

 “For Sayonara, literally translated, ‘Since it must be so,’ of all the good-bys I have heard is the most beautiful. Unlike the Auf Wiedershens and Au revoirs, it does not try to cheat itself by any bravado ‘Till we meet again,’ any sedative to postpone the pain of separation. It does not evade the issue like the sturdy blinking Farewell.
 Farewell is a father’s good-by. It is – ‘Go out in the world and do well, my son.’ It is encouragement and admonition. It is hope and faith. But it passes over the significance of the moment; of parting it says nothing. It hides its emotion. It says too little.
 While Good-by (‘God be with you’) and Adios say too much. They try to bridge the distance, almost to deny it. Good-by is a prayer, a ringing cry. ‘You must not go – I cannot bear to have you go! But you shall not go alone, unwatched. God will be with you. God’s hand will over you’ and even – underneath, hidden, but it is there, incorrigible – ‘I will be with you; I will watch you – always.’ It is a mother’s good-by.
 But Sayonara says neither too much nor too little. It is a simple acceptance of fact. All understanding of life lies in its limits. All emotion, smoldering, is banked up behind it. But it says nothing. It is really the unspoken good-by, the pressure of a hand, ‘Sayonara.”
 Source: Anne Morrow Lindbergh, "North to the Orient"

***

 日本語の『さようなら』は、文字通り訳せば「それがそのようにあらねばならないなら」という意味である。これまで聞いた別れの言葉の中で、これほど美しいものはほかにない。ドイツ語のアウフ・ヴィーダーゼーエン(また会いましょうが原意)やフランス語のオルヴワール(同上)とは異なり、『さようなら』は「またお会いしましょう」という甘やかさで別れの痛みを先送りしはしないし、勇ましい壮行で痛みをごまかすこともしない。

 英語の「フェアウェル」は父親の別れである。「息子よ、外の世界に踏み出して立派にやれ」と告げるものだ。激励と忠告、希望と信念、しかし、その瞬間のかけがえのなさは見逃され、別れについては何も語られない。情感は隠され、想いはほとんど伝わらない。

 グッドバイ(神が汝とともにあらんことを)やアディオスは、逆に伝えすぎる。別れの狭間に橋をかけ、別離が存在しないふりをする。グッドバイは祈りであり、声高な嘆きだ。「行ってはだめ ー あなたを行かせるなんて耐えられない!たとえ行くとしてもあなたは一人ではないし、見捨てられてもいない。神があなたと共に、神の御手があなたの上にあるのだから。」言葉の内側に透けて見えるのは、「私はあなたと共にいる、あなたを見守っている ー いつも」という叫び、グッドバイは母親の別れの言葉なのだ。

 『さようなら』は、語り過ぎることもなければ、不足することもない。ただ事実をあるがままに受容する。そこには人生についての真の理解がある。すべての感情が静かに燃えて満ちあふれ、しかし言葉を結ぶことはない。語られざるグッドバイ、握る手の力、それこそが『さようなら』なのだ。

Ω


ノギスはノニウス

2019-03-23 23:33:23 | 日記

2018年3月11日(月)

 手許にある二組の碁石、どっちが厚いんだろうと考えた。

 一方は厚さを指定して購ったもの、もう一方は訳あって某所から譲り受けたものである。碁笥が傷物でタカをくくっていたが、よく見れば石そのものは、厚みといい光沢といい相当の風格がある。白石の中央部が橙がかっているところなど、かえってメキシコ産ならぬ日向蛤の証とさえ思われるが、素人了見か。

 分厚いのは確かである。碁石は厚いほど上等だが、厚すぎると実際には使いにくい。好みにもよるけれど自分としては、31~2号が普段使いに最適と思っていたところ、この石は明らかにそれより厚いのにナゼかもてあます感じがない。不思議な石で、見つめるほどに掘り出し物感が募ってくる。

 テーブル上に並べて真横から眺め比べれば、どうやら32号既知の石より謎の碁石がいくらか厚そうである。こういうのを測るときに使う道具があったな、ノギス、そうノギスだ。

 そこでまた、ハタと考えた。ノギスとはどういう意味か、ノギスはなぜノギスなのか・・・?

***

 「ノギスは、ポルトガルの数学者ノニウスによって原案が発明され、日本ではノニウスという語がなまってノギスとなったと言われています。」

http://zokeifile.musabi.ac.jp/ノギス

 「ノギスの歴史は、17世紀に始まる。ただし物を挟んで外側寸法の見当をつける程度であった。ポルトガルの数学者ペドロ・ヌネシュ(ラテン語表記ペトルス・ノニウス、Petrus Nonius) がノギスに目盛りを付けたといわれている。ノニウスが訛って日本ではノギスと呼ばれる様になった。英語では、バーニャキャリパーと呼ばれる。これは、1631年ノギスで正確な読み取りが出来るキャリパー構造を完成させたフランス人のピエール・ヴェルニエ(英語表記ピエール・バーニヤ、Pierre Vernier)の名から取られている。(ドイツ語はヌネシュに表敬してか、Nonius である。石丸註)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ノギス

 なるほど、と言いたいところだが、謎はまだ解けていない。日本の文化史の中ほどにポルトガルの影響が鮮やかに刻印され、そのことが金平糖だのバッテラだのスベタ(死語?)だの、ひょっとすると「ありがとう」だのといった語彙から伺い知られる。ただしこれは秀吉の伴天連追放令が発せられるまでの話だから、17世紀に発明されたノギスの名の説明にはならない。

 ずっと下って明治期の伝来とした場合、英仏経由ならヴェルニエ/ヴァーニヤ、ドイツ経由ならノニウスになる理屈。「ノニウスが訛って」と諸家がおっしゃるのは、ドイツ経由を意味するものか。しかし、医学や公法学でこそドイツの影響が大としても、土木建築など技術分野では英仏が優位だったはず。仮にドイツ由来だとして、実物を示されながら「ノニウス」とはっきり教わったものが、似た音とはいえ「ノギス」と訛るものか?

 もごもご言ってるのは、ひょっとしてノギスの伝わったのが江戸時代、オランダ人経由ではなかったかというのである。オランダ人がドイツ人同様、ラテン語の Nonius を採用した可能性は十分あり、それが出島で紹介されてから、日本各地に伝わる間には訛りもするであろう。オランダ語ではノギスを何と呼ぶのか、今度調べてみよう。

***

 それにしてもノギスは大した道具である。巧妙さといい実用性といいノーベル賞級の発明だが、そういえば嘗て世界の海に覇を唱えたポルトガルという国は、ノーベル賞に不思議に縁がない。僕の知る限りで唯一の受賞は1949年、エガス・モニス(António Caetano de Abreu Freire Egas Moniz, 1874-1955)がスイス人、ルドルフ・ヘス(!)との連名で生理学・医学賞を与えられたものだが、これは例のロボトミー(前頭葉切截術)に対するもので、後年ノーベル賞史上最悪の誤りと評された。(もっとも平和賞についてなら、最悪の上を行く事例がいくつも挙げられそうだが。)

 親愛なるポルトガル人の名誉のため、真に価値ある受賞を待望する、と書こうとせて確かめたら、実は既に出ていました。

 ジョゼ・サラマーゴ(José de Sousa Saramago, 1922-2010)、1998年のノーベル文学賞受賞者、主著は『修道院回想録』『白の闇』など。

 読んでみようかと思ったが、Wiki 情報だけで見ても尋常ではない。

 「しばしば1ページ以上にわたる長い文を書く。段落は、通常の小説の章の長さに匹敵するほどである。対話を区切るための引用符(「」や『』)は使わない。個性的なこれらの特徴から、独特の文体のリズムを持っている。」

 「ポルトガル共産党に所属し、無神論者であることを自ら認め、体制批判的な立場を貫いている。また、ポルトガルとスペインが政治的に統合して一つの国になるべきだという主張(イベリスモ)を展開し、両国で論争を巻き起こしている。」

 政治的・宗教的立場はともかく、これではポルトガル語で読まなければ意味がないだろうし、そんな人生の時間は当然ながら残っていない。

 「来世の楽しみにとっておきますよ」といった言い草に対して、この作家はどんな風に反応したのだっただろうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョゼ・サラマーゴ

Ω


五輪が先か〇〇が先か

2019-03-14 21:58:30 | 日記

2019年3月13日(水)

> 聖火リレーが福島のJビレッジをスタートにしたり、野球とソフトの一部試合を阿武隈で行うといった復興と五輪の結びつけがされていますが、はたしてそれがどう東北の人々に響くか見ていきたいですね。今のところは復興という建築ラッシュに五輪の建築ラッシュを重ねてしまった罪の方が大きそうです。

> 五輪が先か〇〇が先かという点で『オリンピック経済幻想論 ~ 2020年東京五輪で日本が失うもの ~ 』という本を思い出しました。

> 近年の五輪は経済政策や都市開発としてほぼ全て失敗しているのですが、唯一の成功例であるバルセロナの成功理由が、招致レースの段階で五輪を招致できなくても関係なく都市開発をすると決定したことだそうです。都市開発が先、五輪が後からついてくる形が成功の秘訣だったとすれば、五輪が先、復興が後の復興五輪の今後は暗い予想となりそうです。

***

 読書家の勝沼さん、さっそく的確なコメントをありがとう。

 その筆法で行けば1964年の東京五輪は、何としても国際社会へ名誉ある復帰を遂げたいという熱望が先にあり、これに「非ヨーロッパ初の五輪開催」という目標が見事に合致したからこそ成功したのですね。

 その光芒が必然的に生みだした影として、64年3月のライシャワー大使事件があった、そのことをきちんと書きとめておくのは自分の役割であるらしいと認識しています。

 取り急ぎ御礼まで

キャラクターはひょっとして、カネゴン?

そうだ!

https://www.amazon.co.jp/バンダイ-BANDAI-UT-541-ウルトラ怪獣シリーズ41-カネゴン/dp/B00107HXTI

Ω