2020年9月8日(火)
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放送は終った。私たちは肩をたれ、うつむいて、ほとんどの者が泣きながら、ばらばらに解散していった。
そのとき、思いがけず、もとより大声ではなかったが、あちこちから「万歳」の声が湧き起った。工場で働いている朝鮮人労働者のあげる叫び声である。
のちに、私は「文芸首都」という同人雑誌に入ったが、そこには朝鮮の作家がかなり出入りしていた。私はその人たちから、いかに日本が過去、朝鮮に対して横暴にふるまったかを聞くことができた。彼らが万歳を唱えたのは当然である。
しかし、そのときは私は何も知らなかった。朝鮮は日本の一部で、彼らは同胞であると信じていた。その同胞が日本の敗戦に対してあげる歓声を耳にして、呆然として、ただひたすらに口惜しかった。
あくまでも青い空、そこから直射する強烈な陽光、しらじらとした砂地に似た地面、その地面を涙でぼやけた目で懸命に見つめながら、なおあちこちであがる抑圧された歓声を聞くまいと努めながら、私は心底から虚脱してふらふらと歩いた。
北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫版 P.29)
「おれは日本が負けたから(といって)喜んで音楽はやらないぞ」とそのまま康がいった。「おれはキムイルスンが勝ったのだけ嬉しいんだぞ」
「そいつはアメリカ人じゃないのか」とわたしはやりかえした。「おなじことじゃないか」
「キムは朝鮮人だ。金日成将軍だ」と康はむしろ力なく疲れきったようにいった。
「なんだ朝鮮人か」とわたしも疲れきって倒れそうになっているのを不意に知りながらいった。
「それでもおなじさ」
康は黙ってわたしを睨みつけていた。わたしは康が石を投げてくるにちがいないと感じた。しかし康は不意に石を棄て、提灯をひろいあげると、すすり泣きながら川原を駈け去って行ったのだ。
「石を投げつけよう」と弟はむっくり体をおこして慌てていった。
「やめろ」とわたしはいった。
大江健三郎『遅れてきた青年』(新潮文庫版 P.53)
「見たか?」とわたしは腹話術のように口腔のなかでささやいた。
「あ?」
「進駐軍じゃないのか?」
「朝鮮人がやってくるんだよ、お姉ちゃんたちは芋壺にかくれたよ」
(同上 P.55)
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証言や記録はいくらでも挙げられるし、親族からの聞き取りを付け加えることもできる。彼の人々が日本の敗戦を喜んだのは今から見れば至極当然だが、当時の多くの(本来の)日本人にとっては晴天の霹靂であり、あり得べからざることだった。彼らの苦悩と忍従を知らなかった ~ 知らされていなかったところに、我ら日本人の悲劇がある。それは大本営発表が隠蔽し続けた戦争の真の経過を知らなかった ~ 知らされなかったことと同質の悲劇である。
しかし、同じ状況の中でも彼らには真相が見えていた。
<泥まみれの工事現場で彼ら朝鮮人たちは、平気で言い放っておりました。「この戦争はすぐに終るヨ」「日本は負けるヨ」>
同胞であるはずの彼らがそのように冷徹に見通し、言い放つことを、手記の筆者は驚きをもって記録する。素朴な一次資料であり貴重な歴史証言であって、北や大江の作品が描写するところにしっくり符合する。
朝日新聞の記事によれば、この手記をもとに番組を創作するにあたり、放送局は微妙に表現を変えた。
<朝鮮人の奴らは「この戦争はすぐに終るヨ」「日本は負けるヨ」と平気で言い放つ>
わずかな改変だが、実に効果的に趣旨が変わっている。激変と言っても良い。どのような改変によって、どのように激変したか、国語の問題として出題したら面白かろう。
新聞記事は「(若い世代に戦争体験を届けようという試みの)難しさも浮き彫りになった」と評するのだが、私見では問題はむしろ単純であり、それだけにいっそう深刻だ。貴重な一次資料を借用するにあたり、つまらない脚色を加えたことが何より拙いのである。情報提供者への信義に悖るばかりでなく、歴史資料に対する敬意をも見失っている。
だから「時代背景の説明などの註釈をつけずに発信したことは配慮が不十分だった」との釈明は、ポイントが違う。註釈をつけなかったことではなく、無用の言葉を付け加えたことが問題なのだ。そもそも「奴ら」という言葉は局のいうように「現代風の表現」であるのかどうか。「奴ら」そのものは1945年当時も使われていたはずだが、手記の筆者は敢えてそうした言葉を織り込まなかった。「驚き」と「敵意」がまるで別物であることは言うまでもない。
一方で、この件をヘイトスピーチなどと安易に同一視するところにも、実は同根の問題があるのだけれども、ややこしくなるので今は立ち入らない。
それよりも、ちょうど数日前にある人から教わった「真理への畏敬」という言葉の方へ、連想がつながっていく。
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