散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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オレだったら

2020-09-14 12:38:40 | 日記
2020年9月14日(月)
 1995〜6年のある晩のこと、アメリカはミズーリ州セントルイス市の一遇で、オルニー研究室の留学生仲間である精神科医キム・スンヒョン(金承賢 김 승형)と、マッコリを酌み交わしつつ気もちよく酔っ払った。
 酔えば大言壮語するのは自然な流れというもので、
 「オレがだな、スンヒョン、日本のモンブ大臣だったらさ、大学の教養課程か、それともいっそ高校でさ、韓国語と中国語を選択必修にするね。アメリカ人がスペイン語勉強するのと同じことだろ。」
 赤い顔のスンヒョンが、頬張っていたナマコの炒め物を飲み込んで、頭を振り振り言ったこと。
 「マシャヒコ、お前はそういう考え方もってちゃ、日本のモンブ大臣なんかになれやしないだろ。」
 
 あれから四半世紀、日本人の韓国語学習者は当時に比べて格段に増えたことだろうが、もちろんモンブ大臣の英断のおかげではなく、韓流カルチャー流入浸透の効果である。そのほうが幸せというものか。
 最近は痛飲する機会もなく、「オレだったら」の大言壮語を吐くこともめっきり減ったが、この週末は大坂なおみの全米オープンV2の報を聞き、7枚のマスクの写真を眺めながら、久々に考えた。
 オレがこの国の総理大臣だったら
 「大坂なおみを国民栄誉賞に」
 推挙するんだが。
 少なくともドナルド・トランプ氏とやらをノーベル平和賞に推薦するよりは、よほど説得力があるに違いないのに。

  それにしてもスンヒョン、君いったいどこに行っちゃったの、지금 어딨어?



Ω

A院長の熱中症対策

2020-09-10 08:07:53 | 日記
2020年9月9日(水)
 「真理への畏敬」の話を進める前に、ちょっと寄り道。
 地域医療の前線で精力的に活躍している、AクリニックA院長のA通信最新号から転載。A君の偉さを今年再発見するところがあった。コロナ禍で医療機関が軒並み防衛に走る中、A君は受診する患者さんをいっさい断らず選別もしなかった。彼のクリニックでできる限りの対応をし、より高度の診療が必要と判断すれば、断られ続けながら手を尽くして転院先を打診し続けた。
 彼はそれを苦とは思っておらず、毎日のランニングを楽しむのと同じように坦々と持ち場を守っている。これが臨床医の標準となるなら、日本の医療の将来に落胆する必要は少しもない。
 やりさえすれば普通にできることをA君自ら示してくれた訳だが、しかし彼の熱中症予防法は普通の人にはできないかな。その点では、普通じゃない人なのだった。

***

 クリニックからの話題です。ご一読下さい。(院長A、2020年9月発行)

【コロナ第2波】
 コロナ第2波は予想通りに来ました。国はGoToキャンペーンを正当化するために「第2波ではない」と言い張っていますが感染症専門家は明らかに第2波と公言しています。最近はコロナ感染後の後遺症のことが騒がれています。コロナにかからないことが一番大切であり、自粛解除になってはいますが人混みを避けることが必要です。

【ポピドンヨード(商品名イソジン)のうがいはコロナに効く?】
 大阪府知事が「ポピドンヨードうがいでコロナウイルスの量が減り、重症化を防げる」という趣旨の発言を8月初めにTV番組で行ったところ、お客さんが殺到して薬局からイソジンガーグルさらには皮膚消毒用のイソジンまでが一時的に消えてしまいました。コロナ対応で注目されていた人気知事の影響には驚きましたが、デマのような情報に簡単に流されてしまう一般の方の動向も衝撃的でした。
 うがいが全ての感染症の予防として有効であることは確かですが、うがいは水によるもので十分ですし、イソジンが特に効くわけではありません。ましてやコロナの治療・予防に四苦八苦している現状で、イソジンのうがい程度が効くはずがありません。ガーゼがマスクの原料になるからということで、マスクが足りなくなった時にガーゼまで薬局から消えてしまったことと同様の現象に、我々医療機関側も困っています。正しい情報を選んで良識ある行動をお願い致します。

【A院長の究極の(?)熱中症予防法】
 昨年以上の猛暑で救急搬送、さらには死亡者のことが連日ニュースになっています。死亡者はクーラーをつけていなかった70歳以上に多いとのことで、クーラーを必ず使うようにと呼びかけられています。
 私自身は、熱中症予防は「暑さにからだを慣れさせる」ことに尽き、逆説的ですがクーラーを使わないことが最善と考えています。クーラーの下ではのどが痛くなったりするので、クーラーを使わないことで風邪予防にもつながる一石二鳥の効果もあります。自宅ではクーラーを使わず窓を全開にし、扇風機を回して首に保冷剤を巻いて、暑い暑いと言いながら過ごすことが私の熱中症対策です。日頃からランニングもしますが、ペースを落として暑い日中でも走ることを続けています。 
 ただし私個人の方法ですので、他の方は決して真似しないで下さい

【帯状痕疹予防に水痘ワクチンを】
 暑くなって、痛みを伴ったひどい発疹で帯状疱疹と診断される方が増えています。免疫力が落ちると帯状疱疹を発症し繰り返すこともあり、この病気で命を落とすことはありませんが、高齢者では大変にやっかいなものです。皮疹が治った後も痛みが続く帯状疱疹後神経痛もきたします。帯状疱疹の予防手段としては、自費になってしまいますが水痘ワクチンの注射が効果的であり、当院でも注射を行っています。注射による副作用はほとんどありません。当院では50歳以上のスタッフは全員注射を受けています。50歳以上でご希望の方はワクチンをお取り寄せします。

Ω

「奴ら」が顕わす浅はかさ

2020-09-08 09:46:10 | 日記
2020年9月8日(火)
***
  放送は終った。私たちは肩をたれ、うつむいて、ほとんどの者が泣きながら、ばらばらに解散していった。
 そのとき、思いがけず、もとより大声ではなかったが、あちこちから「万歳」の声が湧き起った。工場で働いている朝鮮人労働者のあげる叫び声である。
 のちに、私は「文芸首都」という同人雑誌に入ったが、そこには朝鮮の作家がかなり出入りしていた。私はその人たちから、いかに日本が過去、朝鮮に対して横暴にふるまったかを聞くことができた。彼らが万歳を唱えたのは当然である。
 しかし、そのときは私は何も知らなかった。朝鮮は日本の一部で、彼らは同胞であると信じていた。その同胞が日本の敗戦に対してあげる歓声を耳にして、呆然として、ただひたすらに口惜しかった。
 あくまでも青い空、そこから直射する強烈な陽光、しらじらとした砂地に似た地面、その地面を涙でぼやけた目で懸命に見つめながら、なおあちこちであがる抑圧された歓声を聞くまいと努めながら、私は心底から虚脱してふらふらと歩いた。
北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫版 P.29)

 「おれは日本が負けたから(といって)喜んで音楽はやらないぞ」とそのまま康がいった。「おれはキムイルスンが勝ったのだけ嬉しいんだぞ」
 「そいつはアメリカ人じゃないのか」とわたしはやりかえした。「おなじことじゃないか」
 「キムは朝鮮人だ。金日成将軍だ」と康はむしろ力なく疲れきったようにいった。
 「なんだ朝鮮人か」とわたしも疲れきって倒れそうになっているのを不意に知りながらいった。
 「それでもおなじさ」
 康は黙ってわたしを睨みつけていた。わたしは康が石を投げてくるにちがいないと感じた。しかし康は不意に石を棄て、提灯をひろいあげると、すすり泣きながら川原を駈け去って行ったのだ。
 「石を投げつけよう」と弟はむっくり体をおこして慌てていった。
 「やめろ」とわたしはいった。
大江健三郎『遅れてきた青年』(新潮文庫版 P.53)

 「見たか?」とわたしは腹話術のように口腔のなかでささやいた。
 「あ?」
 「進駐軍じゃないのか?」
 「朝鮮人がやってくるんだよ、お姉ちゃんたちは芋壺にかくれたよ」
(同上 P.55)
***

 証言や記録はいくらでも挙げられるし、親族からの聞き取りを付け加えることもできる。彼の人々が日本の敗戦を喜んだのは今から見れば至極当然だが、当時の多くの(本来の)日本人にとっては晴天の霹靂であり、あり得べからざることだった。彼らの苦悩と忍従を知らなかった ~ 知らされていなかったところに、我ら日本人の悲劇がある。それは大本営発表が隠蔽し続けた戦争の真の経過を知らなかった ~ 知らされなかったことと同質の悲劇である。
 しかし、同じ状況の中でも彼らには真相が見えていた。

 <泥まみれの工事現場で彼ら朝鮮人たちは、平気で言い放っておりました。「この戦争はすぐに終るヨ」「日本は負けるヨ」>

 同胞であるはずの彼らがそのように冷徹に見通し、言い放つことを、手記の筆者は驚きをもって記録する。素朴な一次資料であり貴重な歴史証言であって、北や大江の作品が描写するところにしっくり符合する。

 朝日新聞の記事によれば、この手記をもとに番組を創作するにあたり、放送局は微妙に表現を変えた。

 <朝鮮人の奴らは「この戦争はすぐに終るヨ」「日本は負けるヨ」と平気で言い放つ>

 わずかな改変だが、実に効果的に趣旨が変わっている。激変と言っても良い。どのような改変によって、どのように激変したか、国語の問題として出題したら面白かろう。
 新聞記事は「(若い世代に戦争体験を届けようという試みの)難しさも浮き彫りになった」と評するのだが、私見では問題はむしろ単純であり、それだけにいっそう深刻だ。貴重な一次資料を借用するにあたり、つまらない脚色を加えたことが何より拙いのである。情報提供者への信義に悖るばかりでなく、歴史資料に対する敬意をも見失っている。
 だから「時代背景の説明などの註釈をつけずに発信したことは配慮が不十分だった」との釈明は、ポイントが違う。註釈をつけなかったことではなく、無用の言葉を付け加えたことが問題なのだ。そもそも「奴ら」という言葉は局のいうように「現代風の表現」であるのかどうか。「奴ら」そのものは1945年当時も使われていたはずだが、手記の筆者は敢えてそうした言葉を織り込まなかった。「驚き」と「敵意」がまるで別物であることは言うまでもない。

 一方で、この件をヘイトスピーチなどと安易に同一視するところにも、実は同根の問題があるのだけれども、ややこしくなるので今は立ち入らない。
 それよりも、ちょうど数日前にある人から教わった「真理への畏敬」という言葉の方へ、連想がつながっていく。

Ω


振起日の礼拝説教

2020-09-07 12:54:14 | 日記
2020年9月6日(日)
 "God" を「神」と訳したことがそもそもの間違いだったとは、以前から聞かされてきたところである。「八百万の神々」だの「神対応」だのといった、出来合いの卑近なイメージに "God" が引き寄せられ、どうしてもそこから抜け出せない。
 仏教は多神(?)教であるだけに、宇宙を体現する大日の広大無辺、56億7千万年後を指し示す弥勒の永劫、森羅万象の隅々まで浸透する地蔵の慈悲の無尽蔵まで、居並ぶ如来や菩薩のそれぞれが多様な姿で「無限」を証しして尽きるところがない。いわばそのすべてを一身に具現するヘブライズムの "God" は、大日・弥勒・地蔵その他諸々に一者で拮抗するというのだからたいへんなもので、われら日本人の親しく知る神(々)とは隔絶していなければ話がおかしい。

 韓国・朝鮮ではどうかというに、こちらは하나님(ハナニム)という言葉を充てている。

  하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작은 이러합니다.
 「神の子イエスキリストの福音のはじめは、このようであった。」(マルコ 1:1)

 辞書によれば 하나님 は「キリスト教の信仰の対象たる唯一神、天の神」などとあり、もっぱらキリスト教のそれを意味するものとして造語されたもののようである。初学者の恐いもの知らずで推量するなら、「하나」は「一つ」、「님」は「様」にあたる敬称だから、「ただ一人の貴い存在」ぐらいの感じだろうか。少なくとも、半島の人々が古来たいせつにしてきた祖霊などとは、まるで違う方向を向いている。それが賢明だったのかも知れない。
 「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳した本邦先人の苦心が偲ばれるというものである。

 マタイ福音書5章、いわゆる「山上の説教」の冒頭が今日のテーマ。「幸いである」と訳されるのが常だが、原語は感嘆文であることに説教者が注意を喚起する。
 「何と幸いなことか!」
 実はこれが詩編の筆法なのだとも。

 もう一つ、「心の貧しい人々は」「悲しむ人々は」「柔和な人々は」と三人称で告げられていく祝福が、末尾で突然、二人称に変わる。
 「あなたがたは何と幸いなことか!」
 何が?
 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」・・・!
 ここに至って「あなたがた」が明示的に正面に据えられる。「あなたがた」とは誰のことか、実際にイエスを取り巻いていた人々か、マタイが読者として想定した人々か。むろん、あらゆる時代のすべての読者が潜在的に「あなたがた」であることは間違いないが、それにしても。
 とりたてて罵られることもなく、迫害されもせず、身に覚えのない悪口を「彼」のために浴びるでもない、この身の幸いはどこにあるか?
 
 Ω
 



奇妙な夏

2020-09-03 07:38:31 | 日記
2020年8月20日(木)
 奇妙な夏の終わりが近づいている。
 帰省を断念した初夏の連休にはサクランボがほとんど生らず、ビワも不作だったと父。ツバメは一昨年に続いてまた来たらず、柑橘類だけが変わりもなく青い実を営々と準備中である。
 それだけなら驚くほどでもないが、どうにも不気味なのはアシナガバチを見ないことである。皆無ではない、ぶらんと足を垂らして飛行する個体を二、三度は見かけたが、屋敷内でも畑回りでも巣に一つも出会わなかった。いつもなら、草刈りや剪定をはじめるが早いか、いきなり刺されるか刺されそうになるかで、そういえば田舎の庭にはこの生き物がいるのだったと苦笑させられる。そんな場面についぞ出会わなかったのが、およそ記憶にないことだった。
 個体を見かけたから、どこかに営巣してはいるのだろうが、こんなに目だたないことには何か理由がなくてはならない。その見当がつかないのが不気味だというのである。
 不思議がり、いくらか寂しがっていたら、それなら代わりにと一撃されたのが最終日の夕方。日が傾いてきてそろそろ引っ込むかと、最後にとんがり鍬の先でひっかいてみた。枯れ木にノウゼンカズラが取り付いた、その根本あたりの叢である。薄暗がりにブウンと機械が唸るような低い轟きがあり、黄色まじりのつぶての群れが宙に跳ね上がった。おっ、と構え直したところへ、いきなり脹ら脛に痛みを感じる。手で払ってもすぐには離れず、しっかり針を刺し込まれた。
 じたばたしながら頭の隅で考えたのは、「アシナガバチではない」ということである。蜂類の多くは憲法9条を奉ずる専守防衛の輩で、庭の真ん中ですれ違う分には何の危険もないが、巣に接近する相手には待ったなしのスクランブルをかける。ただし、アシナガバチの場合その限界はたかだか半径1mで、鍬の柄の長さを超えて攻撃してくることはあり得ない。容易に払えず、ズボンの生地越しに針を刺し込む身体能力も、より大型の証拠である。
 もう一つ、刺された瞬間の痛み方が違った。アシナガバチに刺されると、鋭い痛みに続いて一瞬、頭の中が白くなるような独特の違和感が起きる。ある種の離人感にも通じるようで、大発作直前の瞬間に無上の至福を重ねたドストエフスキーなら、深い意味を見出すであろう特有の苦痛である。痛いのは同じでも、今の痛みにはそれがないようなのだ。
 ともかくいったん逃げだし、態勢を整えて最接近。周囲の枝葉を慎重に取り除くと、こんなものがあらわれた。


 いつもは殺虫剤を使わず、巣を静かに枝から切り離すだけで済ませるところだが、今回は既につついて騒がせたから蜂も気が立っている。不本意ながら、一昨年キイロスズメバチの駆除に使った強力殺虫剤の残りを丁寧に使いきり、それから高枝バサミで巣を回収した。


 ネット検索によれば、どうやらコガタスズメバチの巣であるらしい。なかなかの工芸品で飾っておきたいぐらいだが、触れると案外脆くて念の入ったペーパーワークといったところ。翌朝、中から成虫が2匹這い出してきた。そのいでたちもネット情報に合致している。



 それにしても奇異なるこの夏一連の印象が、今年偶々のものか、後から振り返って結節点の意味をもつものか、この時点では何とも言えない。新型コロナ禍で列島全体が呼吸困難に陥り、東京五輪が延期され、自分は初めてコガタスズメバチに刺された、さしあたり2020はそういう夏として記録する。

Ω