御朱印巡りをしているとタイミングが合わない、時間がないなどの理由でどうしてもポツンと残ってしまった寺社が出てきてしまいます。
とはいえ魅力的な寺社だったりするので時間に余裕があるお正月のうちに回ってみたいと思います。今回は主に滋賀県から回ってみましょう。
湖西線直通の新快速に乗り比叡山坂本駅で下車します。
坂本はブラタモリの比叡山の回でも触れていたとおり比叡山の麓にあり天台宗系の寺院が並んでいます。
坂本では西教寺を残しています。律院や滋賀院門跡からは離れていて残ってしまいました。西教寺へは江若バスがあるのですが土日はたった4本しかなく使いづらい上に歩きだと30分以上かかります。
どうしたものかと江若バスの路線図を見たら日吉台という団地に向かう路線は本数があり、日吉台センターで下車すれば近くとは言えないまでも歩く距離を短縮できることが分かりました。西教寺は9時から拝観受付が始まるので行きは比叡山坂本駅8時39分発のバスを利用し帰りは4本しかないうちの1本となる西教寺9時43分発のバスを利用することにしました。
自転車のラックを前面に取り付けており、ナンバープレートが一風変わったところに掲げられています。ビワイチなど自転車のお客さんを少しでも取り込みたいようですね。
日吉台センター前には8時43分に到着。クリーニング屋さんの角を左に折れ次の信号を右に曲がればあとは道なりで西教寺です。上り坂になるものの15分で着きました。
西教寺に到着。聖徳太子が創建したとされる古刹で、天台宗系の天台真盛宗の総本山となっています。天台真盛宗は室町時代に西教寺を再興させた真盛が開いた宗派で、阿弥陀仏を本尊とし念仏を唱えるなど浄土宗に近い教義を持っています。一方で天台宗系伝統の戒律を重んじる考えも持ち合わせているそうです。
織田信長の比叡山焼き討ちの際に伽藍を焼失、その後信長から坂本の地を与えられた明智光秀が再建に力を貸し自らの菩提寺と定めました。さらに京都の岡崎にあった法勝寺が再建されないまま西教寺に合併され寺宝などを引き継いでいます。明治になり天台宗から独立、戦時統合により一旦は天台宗と合同しますが戦後再び分かれています。
こちらの門は坂本城にあった門を移築したそうです。光秀が大河ドラマになりますので今年は多くの拝観が見込めそうですね。
本堂は江戸時代の1739年に完成、重要文化財に指定されています。寺務所が拝観受付になっていますので拝観をお願いすると本堂に入れます。
本尊は阿弥陀如来像で平安期の作とされています。元の本尊は信長に焼かれてしまい、今の本尊は甲賀の浄福寺というお寺にあったものだと言われていますが浄福寺についてはどんなお寺だったか分からないそうです。
本堂の隣には秀吉の伏見城から移築された客殿があります。豪勢な秀吉の御座所のすぐ目の前にあるのが明智光秀一族の墓で、まさに勝者と敗者を見せつけられている感じします。明智光秀の展示館も見ることができますが、直接の資料は光秀の直筆の書状がある程度です。
庭もなかなか見応えがありましたが、バスの時間が迫ってきましたのでここで切り上げましょう。
西教寺の御朱印です。
バスで比叡山坂本に。長浜に行きたいので聞いたら近江塩津乗り換えの方が早いとのことで湖西線の敦賀行き新快速でこのまま北上します。近江塩津で数分の乗り換えで米原回りの新快速姫路行きに接続しています。新快速同士の接続って非常に珍しいですよね。
長浜に到着。行ってみたかったのがここ。
「
茶しん」というお店です。元々はお茶屋さんなのですが、回転焼きの販売やレストランもやっています。このレストランがキッチュでして、新潟名物の「イタリアン焼きそば」と千葉名物「ホワイト餃子」が一度に食べられるのです。
7卓しかないので7グループ入ったら一杯になります。長っ尻の客が何組かいると長時間並ばされる羽目になります。30分近く並んでようやく入店できました。入店して注文と会計を済ませてから席に着くスタイルです。
イタリアン焼きそばです。焼きそばにトマトソースまたはミートソースをかけたもので新潟の「
みかづき」が発祥とされています。茶しんではミートソースを使っています。
ホワイト餃子も到着。千葉県野田の
ホワイト餃子本店で修行し、巣鴨の「ファイト餃子」などと同じく「技術連鎖店」と正式に認められています。なので確かにホワイト餃子の味です。関西ではこの茶しんだけだそうです。
この組み合わせを同時に楽しめるのは全国でもここだけでしょう。これで1,000円ちょうど。面白いですよ。
お腹いっぱいで米原で下車します。米原は交通の要衝ですが下車するお客は少ないです。東口は新幹線の停車駅とは思えない小さい入り口です。
この東口からすぐに
青岸寺があります。ここもポツンとあるためずっと残った形です。
南北朝時代に守護大名の京極道誉が創建した米泉寺がルーツです。京極氏は佐々木源氏の一流であり足利幕府を支えた名門でしたが戦国時代に没落、京極高次に至っては信長に拾われるまでは客人の身分にまで落ちていました。高次は明智光秀に味方したため秀吉から取りつぶし寸前になりますが、美女であった妹の竜子が秀吉の側室になることで家をつなぐことに成功、関ヶ原では大津城を守る形で東軍につき京極家は讃岐丸亀藩主となり明治を迎えています。京極家は出自がはっきり分かっている源氏の名門として明治まで生き残った珍しい例です。
その後戦火で米泉寺は焼失、難を逃れた本尊の聖観音像は朽ちたお堂に祀られていましたが、1650年に彦根の大雲寺三世の要津守三が大雲寺の末寺として再興、寺名を青岸寺と改め曹洞宗のお寺となりました。領主の井伊家からも援助を受け庭園が整備され国の名勝となっています。
雪吊りが見事ですね。雪の多い米原も今年は雪がないようです。
1326年に造られた聖観音像も拝観できます。本堂は静か・・・と思いきや米原駅のホームのアナウンスが風に乗って聞こえてきます。
また青岸寺はお寺カフェもやっています。自慢の庭を眺めながらご住職自らがいれるコーヒーなどを頂けるのですが残念ながら年末年始はお休みとのこと。
青岸寺の御朱印です。ぜひ紅葉の季節や雪の中、カフェの開いている時期に訪れてみてください。
電車に乗り直し近江八幡でカネ吉山本のコロッケを買っておきました。近江八幡では西国霊場の長命寺が残っているのですが小雨のためやめておきました。
残りどうしようと電車内で思って山科で下車、地下鉄で京都市役所前に向かいました。本能寺の御首題がなぜか書き手不在でダメ続きだったのでお正月なら大丈夫かと思い向かってみます。
本能寺は法華宗本門流の大本山で、ご存知明智光秀が織田信長を討った戦国最大のクーデターである本能寺の変で知られます。本能寺の変の当時は今のお寺から南西に約1.4kmくらいの元本能寺町や元本能寺南町周辺にあったとされています。秀吉の京都大改造によりこの地に移っています。本能寺はたびたび焼失の憂き目に遭っており、直近では幕末のドンドン焼けで焼けてしまい、七度目の建立として1928年に完成しています。
法華宗本門流は広義の日蓮宗の一派で、日蓮を宗祖とし室町時代の日隆を派祖としています。日隆は妙顕寺で修行、法華経のうち後半の14章(品)である「本門」のうち15章から22章までの8章(八品)こそが釈迦の真の教えであるとして新たに宗派を興し本能寺を創建しています。日蓮宗系の諸宗派は宗祖が日蓮であること法華経を唱えることは共通ですが考え方が微妙に異なっており、違いを説明することが非常に難しいです。
本能寺の朱印所は寺務所ですが、これまで寺務所のあった本能寺文化会館が建て替えられるため一時的に寺務所を宝物殿に移転しています。今日はOKとのことで御首題を頂きます。
本能寺の御首題です。「南無妙法蓮華経」の右脇には上の方で説明の通り「本門八品」の文言があります。左脇には上行菩薩から伝え受けたことを意味する「上行所伝」とあり、全て合わせて「本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経」となります。法華宗本門流のサイトを見ればまさに本尊を意味しているようです(たぶんこれで合っていると思いますが・・・)。
御朱印所には次々と来られていましたが「妙法」の「御朱印」を頂く方ばかりで「御首題」は私だけでした。御首題は中心にお題目の「南無妙法蓮華経」が来ることは共通ですが、脇の文言が異なりますし、お題目自体もきれいな字を書かれる上人であれば芸術的な有り難さがあります。
各塔頭は「御朱印」の看板が出ていなかったので塔頭はパスして帰りましょう。
ということで明智光秀に絡んで回ってきた感じです。訪れ損ねている寺社を回るので効率が悪くなってしまうのが悩みの種ですね。
今回の御朱印情報です(御朱印料は特記ない限り300円)。
西教寺 1種を拝観受付で授与。オリジナル御朱印帳あり。
青岸寺 1種を拝観受付で授与。井伊家ゆかりの社寺めぐり御朱印帳あり。
本能寺 2種を寺務所で授与。オリジナル御朱印帳・御朱印袋あり。