私は非常に驚いた。屋外での近隣のお店回り、坂道での危難、そして曇天の下、数々の緊張を強いられた心労と疲れからか、はたまた冷え込んで来た大気のせいか、すっかり心身共に冷え込んで帰宅した私に、待ち構えたかの様に祖母は言ったのだ。
「姉さんはいい人だ。」
「お前のお母さんの事だよ。」
「よく出来た人だよ。お前もお母さんを見習って姉さんの様な出来た人になりなさい。」
玄関から奥へと入って来た私の気配に、祖母は待ち受けたように座敷の入り口から姿を現すと言った。
何しろ今迄が今迄だっただけに、母に対して誰も褒め言葉等言った試が無かった我が家だ。私は呆気に取られてぽかんと口を開けると祖母の顔を見詰めた。祖母はやや頬を染めていたが、確りと私の目を見据える様に目を見開き、緊張した面持ちでいた。そして
「本当にあんなに出来た良い人はいないからね。」
そう駄目を押すように私に言うと、彼女は気が済んだのか、くるりと私に背中を向けると座敷に引っ込んだ。
はぁ?え?…。私は行き成りの成り行きが呑み込めずに立ち竦んだまま、その場で目を白黒させていたが、今の祖母の言葉を心の中で繰り返してみた。母が?出来の良い、よい人、良く出来た人?。考える程に益々私には事態が飲み込めなくなるのだった。
『変じゃないかな?。』
私は思った。確かに、今迄面と向かって母の事を、出来が悪い等と祖母が批判した事は無かったが、しかし、そう言った祖母は勿論、父や祖父等、家族皆から私の母の評価を聞かなくても、私の見る所、普段の母の言動を考えてみると、敢えて言うまでも無く可なりお粗末で出来は良くない人だった。どちらかと言うと出来が悪い部類の人では無いか?私はここで改めて自身の母の事を考えてみた。すると当然、私にはどうも祖母の今言った言葉が全て承服出来かねる事となった。
『母はやはり変な人だ。』
私は思う。そんな母の事を褒め上げるなんて…、もしかすると。私はここで初めて、母を褒め上げた祖母はかなり変な人なのではないか?、という考えを持った。
今迄何事も正しく真面な人、それどころか相当に出来た人物だと尊敬さえしていた祖母だ。そんな風に思っていた私が変なのだろうか?。事ここに来て私は世の中の物事の指針という物があやふやになり、自身の足元がぐらついて来たような錯覚に襲われた。
何か基になるきちんとした物、確りと変化の無い物を見つけなければ。目眩が起きそうなくらいに私の周囲はぐらついて来た。『早く何かこの世で確かな物を見つけないと、』私は焦りながら考えた。今にもばたりと倒れ込みそうな私は、ぐらつき流れ出した周囲の物品に益々焦った。走馬灯のように流れる色と形、それらをぐるぐる目にしながら、ハッ!と私は思い至った。
私だ!私という物は昔も今も変わりない。私の周囲はあれやこれやと千変万化のように折に触れて変わって来たのだ。が、常に此処に有る私というものは1つだ。
『私は昔から変わらずにここにいる私だ!。』
そう思い至ると、私はぐらつく足を踏みしめて畳の上に立ち留まった。
気付くと部屋の中には何の異変も無く、流れる様な流体として目に映っていた品々は、又日常の変わりない調度品として静寂の中、部屋の中にきちんと収まり返っていた。
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