夫婦2人して見つめ合い仲良く微笑んだ所で、それはそれとしてと、妻の方は階下へ向かいたい意向を夫から優先させようとした。あなた一寸どいて下さいと言うと、下へ行かせて下さいと重ねて申し出た。
「お前、よしなさい。」
夫はやはり妻を窘めた。もういいじゃないか、子供達も大きくなったんだし、今更あんな字引など、必要ないだろう。と言うと、妻の方は、お父さんと、あれは特別な物なんです。この辺ではなかなか買えないような良い品なんですよ。言葉の意味だけじゃ無く、類義語や反語も載っているんです。お陰で私はどれだけ重宝したか。私の人生でもとても大切な物なんです。私の第二の宝と言ってもいいくらいの物なんですよ。と、夫に訴えた。
第二の宝とは、これはまた大きく出たね。夫は何やら頬を染めたが、あれがお前さんにとってそんなに大切な物だとは、それは悪い事をしたねぇと、今迄とは打って変わってにこにこと自分の女房に詫びた。知らなかったんだよ、お前にとってそんなに大切な物だとは…。彼はちょっと悪びれると反省した様子で潮垂れた風情になった。
こうなると妻の方も、用があった息子より自分の連れ合いの方へ注意が向いた様子だ。そんな、悪いだなんて…、そう気に病まれることも無いですよ、お父さんと、自身の感情的になった状態を反省した。
階段の暗がりで頭が冷えた彼女は、そうですねと、お父さんの言われる通り、今更あんな字引の書等、老い先短い私には無用の長物ですよ。と、妙に静かでしおらしい声を発した。
とまれこうまれ、階段で長く連れ添った鎹の夫婦が、あれやこれやとやり取りを重ねる内に段上は静かになった。みしりとも板の軋る音はしなくなった。
変だなぁと、彼等夫婦の息子の、文机の前に正座した儘で彼等の孫は思った。
『階段では何が起こっているんだろう?。』