2015年5/8日~23日まで、15回目のネパール訪問予定でしたが、4/25日発生した大地震のため急遽とりやめとなりました。
10/2日~10日まで、駆け足でしたがやっと訪問してまいりました。
ところが、肝心のカメラをお世話になった銀杏旅館に忘れてきてしまい、ブログを書くこともできないまま数か月も過ぎてしまいました。
10月の末に日本から行った方に持ってきていただくことになっていましたが、それが届いたのが12月のはじめ・・・。
6月から娘の家の手伝いが始まり、日々忙しく過ごしていることもあって、ブログを書く時間も取れず、昨年10月初めのネパール訪問の記録が今頃になってしまいました。
予備のカメラに入っていた写真で、 2015年10月11日 15度目のネパール① 4.25大地震後初訪問 として簡単に報告しましたが、そこで書けなかったメールダラの小学校のこと、ラムチェ村のことをもう少しご報告したいと思います。
~~~ ・ ~~~・ ~~~ ・ ~~~ ・ ~~~ ・ ~~~ ・ ~~~・~~~
2015.10/4(日)~5(月)
4/25日の大地震後初めて私の支援するメールダラの小学校を訪問することができました。
その前に・・・
私が2007年に初めてネパールを訪れたときに 1935年の大地震で世界遺産となっている建造物のほとんどが壊れてしまいやっと修復でき、こうして観光客を迎えることが出来ている・・・と何度も何度も聞いていました。
あれからちょうど80年。 2015年4/25日、又大地震が発生。 世界遺産の多くが崩れ落ちてしまったと毎日ニュースで見たり聞いたりしていました。
今回は、私より先にメールダラの小学校のフェンスを作る支援を申し出て下さったというベルギーの方々三人、フランソワーズ、エディ(後ろの二人)、マーク(前)と一緒に行動しました。
左から パンネくん、ミナちゃん、マーク、筋田さん、フランソワーズ、エディ です。
2013年夏に、筋田さんから「昼食をとれない子供たちが水を飲むために乾季の10月から6月まで、往復20分もかけて水場まで行く・・・」という話を聞き、当初の予定では、遠い山の上の水場から水を引き、学校に水飲み場を造ろうというのが私のメールダラ支援の始まりでした。
そのついでにできたのが、トイレとフェンス作りに足りなかった門扉4枚の追加だったようです。
私がメールダラの学校を初めて訪れたのは2013年の11月ですが、このときにはすでに銀杏旅館の筋田さんのご尽力でフェンス、トイレ、水道設備が出来上がっていました。
2013年11月末、初めて訪問した時の校舎(平屋部分)
日本では考えられない珍しい?粗い壁・・と思い、近くで写してみたくなり撮ったものです。
これでは崩れやすくもあるだろうし、すきま風も入るのではと思ったものです。
校舎は平屋部分と2階建て部分との2棟ありました。(子供たちの後ろにわずかに見えます。)
水道、トイレ、フェンスと設備が整い子供たちが増えたこともあり平屋部分の校舎を建て替えることになりました。
ですが、いつのまにか建て替えでなく、セメントで補強して壁をきれいに塗り替えるという風に変更されていました・・・。
2014年、雨季に入る前の4月ころから始められた工事は、2014年8月末に私が高校生と一緒に訪問した時には壁や窓枠のペンキ塗りが終わり、ここまでになっていました。
2階建校舎
平屋校舎
このときに、ボランティア活動で来ていた大学生が言い出して、校庭にある大きなラックリ(シデ)の木の根元にあるチョウタラ(腰かけて休むところ)を、ヒビも入っていることだし座りやすいように造り変えようということにもなりました。
2013年11月にはこんな感じだったチョウタラ。
2014.9月にはこんなふうに出来上がりました。
セメントが残ったからか、お金が残ったからなのか、せまい校庭だというのに予定にはなかったりっぱな “勉学の神さま” の祠までができ、中には学問の神様・サラソティーが祀られていました!
祠の中の神様・サラソティー。 高さは80センチくらいでしょうか・・・。 向かって左にあるのはガネーシャといい 日本では商売の神様と言っているようですが、私のガイドさんだったディネシュさんは“幸福の神様”と言っていました。
その後も工事はネパール時間で進み(のんびりゆっくりでなかなか進まず・・)、2015年の4月初めにやっと外壁に絵も描かれこんなにきれいに仕上がったと筋田さんから知らせをうけました。
教室内にも掛け算や英語の文字や絵などが描かれたと・・。
このときはまだ地震の起こる前のことで、5/8日から23日の訪問時に“完成セレモニーをする”ということになっていました。
ところが、ところがあの4/25日の大地震!!!!
最初の予定では大地震後間もない5/8~23日までの訪問のはずでしたが、混乱の中、移動や私たちのお世話をしてくれる人たちのこと、食料事情等を考えるととてもムリであろうと予定の訪問は取り止めました。
筋田さんからの知らせで「メールダラの学校はこれくらいのクラッシュだけで済んでいるので補修すれば大丈夫」ということでホッと胸をなでおろし、完成セレモニーは修復のあとで・・となりました。
悲劇はそのあとに起こりました!!!
6月から雨季に入りしばらくした9月初め、筋田さんから思いもかけない知らせが飛び込みました。 学校の校舎の裏山が崩れて土砂が校舎に襲いかかり、2階建の校舎が壊れてしまった!・・と。
手前の平屋部分は健在のよう。 奥に見えるトタンを乗せてある部分が2階建て校舎でした。(階段がわずかに見えます)
平屋の1棟は大丈夫ということで、1棟でも残っていれば・・・と気をとり直しました。
そして迎えた2015年10月の訪問。
2015.10/4日(日) ネパールは土曜日が休日、日曜は授業のある日です。
子供たちは別の場所で、テントからトタンに変わった仮校舎で授業をしているのですが、わざわざ私たちを迎えるために壊れた校舎のほうに来てくれました。
平屋の校舎の写真を見ると、4/25日地震のあと5/12日の大きな余震、その後の雨季での地盤のゆるみとでがけ崩れも続いたからか、直後の写真よりかなり壁、屋根がひどくなっていました。
それはそれとして、子供たちにはプレゼントが渡されました。
銀杏旅館の筋田さんからは毎年渡しているというリュックと文房具、ベルギーのフランソワーズさんたちからはぬいぐるみや風船など。
私からは毎度おなじみの折り紙のコマ、歩きの仲間の応援で作ったお手玉、それにネパールで用意したクッキーなど。
ミナちゃんに通訳してもらって「今度来るときまでお手玉の練習をしておいてね」と伝えました。
みんなで記念撮影
土砂崩れで壊れてしまった2階建て校舎はほとんどが取り払われ更地になっていました。(平屋の校舎の向こう側)
反対側からみたところ。(まだ片付け作業をしていた地元の人たち(女性)の姿が見えます)
フェンスも一部崩れましたが、修復すれば大丈夫。
1棟残った平屋の校舎は屋根の一部が壊れ痛々しくなっていましたが、他はきれいなので修復すれば使えるね・・・ と話していたものです。
教室内は全くきれいなままでしたし・・・。
この晩は、いつも学校で寝泊まりしていたときにお世話になった管理人さんの仮住まいに泊めて頂くことになりました。 ベルギーの3人は村長さんの仮住居に泊めて頂きました。
管理人さんご夫婦とミナちゃん(左)とお嬢さん(後ろの大きい子)と近所の子たち
この後、村で一番貧しいという生徒の家を訪ねました。トタンが十分に届いていないのか木や竹で作られた仮の住居です。
すきまだらけ・・・。
見かねたフランソワーズさんたちは翌日、この家にニワトリをプレゼントすることにしました。メスだけですが、雄はよそから借りて卵を産ませて増やすといいと・・・。
夜は近所の子どもたちが集まりお決まりの歌やダンスです。
2015.10/5日(月)
朝早くに仮校舎の小学校を見に行きました。 まだ早いので子供たちは来ていません。
校舎の向こうには雲海です。
それから2ヶ月後、12月になってからまたまた筋田さんからショックな知らせが飛び込みました。
新しく校舎を建ててもらうのに一棟でも残っていると支援金の都合か支援時期の都合か、なにか不都合があるとのことで、最近代わったという若い新しい村長さんの一存で残っていた方の平屋の校舎まですっかりきれいに取り払われてしまった!と。 筋田さんには何の相談もなく・・だったそう・・。
あの校舎は修復したばかりでまだ充分使えるのになんともったいない・・・。 なんと悲しい・・・。
しばらくは全身の力も抜け、言葉もありませんでした。
ネパール人は新しもん好きだから・・と、いつか筋田さんが言っていたのを思い出しました。
洋服でもリュックでもきれいに大事に長く使う・・ということはなく、安物でもなんでもいいから新しいものが好き・・・と。
今までの筋田さんや私の努力も水の泡と消えてしまいましたね・・と言うと、筋田さんは まだトイレと水道とフェンスに門が残っている・・・と言われました。 校舎あっての学校なのにそれだけではねぇ。。。。。
今後どうしたらいいのか、あわてないでゆっくり考えて行こうと思っています。
翌日から2泊3日でミナちゃん姉妹兄弟の実家のあるラムチェ村を訪問しました。 そのことは次回ご報告いたします。
10/2日~10日まで、駆け足でしたがやっと訪問してまいりました。
ところが、肝心のカメラをお世話になった銀杏旅館に忘れてきてしまい、ブログを書くこともできないまま数か月も過ぎてしまいました。
10月の末に日本から行った方に持ってきていただくことになっていましたが、それが届いたのが12月のはじめ・・・。
6月から娘の家の手伝いが始まり、日々忙しく過ごしていることもあって、ブログを書く時間も取れず、昨年10月初めのネパール訪問の記録が今頃になってしまいました。
予備のカメラに入っていた写真で、 2015年10月11日 15度目のネパール① 4.25大地震後初訪問 として簡単に報告しましたが、そこで書けなかったメールダラの小学校のこと、ラムチェ村のことをもう少しご報告したいと思います。
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2015.10/4(日)~5(月)
4/25日の大地震後初めて私の支援するメールダラの小学校を訪問することができました。
その前に・・・
私が2007年に初めてネパールを訪れたときに 1935年の大地震で世界遺産となっている建造物のほとんどが壊れてしまいやっと修復でき、こうして観光客を迎えることが出来ている・・・と何度も何度も聞いていました。
あれからちょうど80年。 2015年4/25日、又大地震が発生。 世界遺産の多くが崩れ落ちてしまったと毎日ニュースで見たり聞いたりしていました。
今回は、私より先にメールダラの小学校のフェンスを作る支援を申し出て下さったというベルギーの方々三人、フランソワーズ、エディ(後ろの二人)、マーク(前)と一緒に行動しました。
左から パンネくん、ミナちゃん、マーク、筋田さん、フランソワーズ、エディ です。
2013年夏に、筋田さんから「昼食をとれない子供たちが水を飲むために乾季の10月から6月まで、往復20分もかけて水場まで行く・・・」という話を聞き、当初の予定では、遠い山の上の水場から水を引き、学校に水飲み場を造ろうというのが私のメールダラ支援の始まりでした。
そのついでにできたのが、トイレとフェンス作りに足りなかった門扉4枚の追加だったようです。
私がメールダラの学校を初めて訪れたのは2013年の11月ですが、このときにはすでに銀杏旅館の筋田さんのご尽力でフェンス、トイレ、水道設備が出来上がっていました。
2013年11月末、初めて訪問した時の校舎(平屋部分)
日本では考えられない珍しい?粗い壁・・と思い、近くで写してみたくなり撮ったものです。
これでは崩れやすくもあるだろうし、すきま風も入るのではと思ったものです。
校舎は平屋部分と2階建て部分との2棟ありました。(子供たちの後ろにわずかに見えます。)
水道、トイレ、フェンスと設備が整い子供たちが増えたこともあり平屋部分の校舎を建て替えることになりました。
ですが、いつのまにか建て替えでなく、セメントで補強して壁をきれいに塗り替えるという風に変更されていました・・・。
2014年、雨季に入る前の4月ころから始められた工事は、2014年8月末に私が高校生と一緒に訪問した時には壁や窓枠のペンキ塗りが終わり、ここまでになっていました。
2階建校舎
平屋校舎
このときに、ボランティア活動で来ていた大学生が言い出して、校庭にある大きなラックリ(シデ)の木の根元にあるチョウタラ(腰かけて休むところ)を、ヒビも入っていることだし座りやすいように造り変えようということにもなりました。
2013年11月にはこんな感じだったチョウタラ。
2014.9月にはこんなふうに出来上がりました。
セメントが残ったからか、お金が残ったからなのか、せまい校庭だというのに予定にはなかったりっぱな “勉学の神さま” の祠までができ、中には学問の神様・サラソティーが祀られていました!
祠の中の神様・サラソティー。 高さは80センチくらいでしょうか・・・。 向かって左にあるのはガネーシャといい 日本では商売の神様と言っているようですが、私のガイドさんだったディネシュさんは“幸福の神様”と言っていました。
その後も工事はネパール時間で進み(のんびりゆっくりでなかなか進まず・・)、2015年の4月初めにやっと外壁に絵も描かれこんなにきれいに仕上がったと筋田さんから知らせをうけました。
教室内にも掛け算や英語の文字や絵などが描かれたと・・。
このときはまだ地震の起こる前のことで、5/8日から23日の訪問時に“完成セレモニーをする”ということになっていました。
ところが、ところがあの4/25日の大地震!!!!
最初の予定では大地震後間もない5/8~23日までの訪問のはずでしたが、混乱の中、移動や私たちのお世話をしてくれる人たちのこと、食料事情等を考えるととてもムリであろうと予定の訪問は取り止めました。
筋田さんからの知らせで「メールダラの学校はこれくらいのクラッシュだけで済んでいるので補修すれば大丈夫」ということでホッと胸をなでおろし、完成セレモニーは修復のあとで・・となりました。
悲劇はそのあとに起こりました!!!
6月から雨季に入りしばらくした9月初め、筋田さんから思いもかけない知らせが飛び込みました。 学校の校舎の裏山が崩れて土砂が校舎に襲いかかり、2階建の校舎が壊れてしまった!・・と。
手前の平屋部分は健在のよう。 奥に見えるトタンを乗せてある部分が2階建て校舎でした。(階段がわずかに見えます)
平屋の1棟は大丈夫ということで、1棟でも残っていれば・・・と気をとり直しました。
そして迎えた2015年10月の訪問。
2015.10/4日(日) ネパールは土曜日が休日、日曜は授業のある日です。
子供たちは別の場所で、テントからトタンに変わった仮校舎で授業をしているのですが、わざわざ私たちを迎えるために壊れた校舎のほうに来てくれました。
平屋の校舎の写真を見ると、4/25日地震のあと5/12日の大きな余震、その後の雨季での地盤のゆるみとでがけ崩れも続いたからか、直後の写真よりかなり壁、屋根がひどくなっていました。
それはそれとして、子供たちにはプレゼントが渡されました。
銀杏旅館の筋田さんからは毎年渡しているというリュックと文房具、ベルギーのフランソワーズさんたちからはぬいぐるみや風船など。
私からは毎度おなじみの折り紙のコマ、歩きの仲間の応援で作ったお手玉、それにネパールで用意したクッキーなど。
ミナちゃんに通訳してもらって「今度来るときまでお手玉の練習をしておいてね」と伝えました。
みんなで記念撮影
土砂崩れで壊れてしまった2階建て校舎はほとんどが取り払われ更地になっていました。(平屋の校舎の向こう側)
反対側からみたところ。(まだ片付け作業をしていた地元の人たち(女性)の姿が見えます)
フェンスも一部崩れましたが、修復すれば大丈夫。
1棟残った平屋の校舎は屋根の一部が壊れ痛々しくなっていましたが、他はきれいなので修復すれば使えるね・・・ と話していたものです。
教室内は全くきれいなままでしたし・・・。
この晩は、いつも学校で寝泊まりしていたときにお世話になった管理人さんの仮住まいに泊めて頂くことになりました。 ベルギーの3人は村長さんの仮住居に泊めて頂きました。
管理人さんご夫婦とミナちゃん(左)とお嬢さん(後ろの大きい子)と近所の子たち
この後、村で一番貧しいという生徒の家を訪ねました。トタンが十分に届いていないのか木や竹で作られた仮の住居です。
すきまだらけ・・・。
見かねたフランソワーズさんたちは翌日、この家にニワトリをプレゼントすることにしました。メスだけですが、雄はよそから借りて卵を産ませて増やすといいと・・・。
夜は近所の子どもたちが集まりお決まりの歌やダンスです。
2015.10/5日(月)
朝早くに仮校舎の小学校を見に行きました。 まだ早いので子供たちは来ていません。
校舎の向こうには雲海です。
それから2ヶ月後、12月になってからまたまた筋田さんからショックな知らせが飛び込みました。
新しく校舎を建ててもらうのに一棟でも残っていると支援金の都合か支援時期の都合か、なにか不都合があるとのことで、最近代わったという若い新しい村長さんの一存で残っていた方の平屋の校舎まですっかりきれいに取り払われてしまった!と。 筋田さんには何の相談もなく・・だったそう・・。
あの校舎は修復したばかりでまだ充分使えるのになんともったいない・・・。 なんと悲しい・・・。
しばらくは全身の力も抜け、言葉もありませんでした。
ネパール人は新しもん好きだから・・と、いつか筋田さんが言っていたのを思い出しました。
洋服でもリュックでもきれいに大事に長く使う・・ということはなく、安物でもなんでもいいから新しいものが好き・・・と。
今までの筋田さんや私の努力も水の泡と消えてしまいましたね・・と言うと、筋田さんは まだトイレと水道とフェンスに門が残っている・・・と言われました。 校舎あっての学校なのにそれだけではねぇ。。。。。
今後どうしたらいいのか、あわてないでゆっくり考えて行こうと思っています。
翌日から2泊3日でミナちゃん姉妹兄弟の実家のあるラムチェ村を訪問しました。 そのことは次回ご報告いたします。