2015.10/5~7日まで、2泊3日で、カトマンドゥからバスで50分ほどのところにあるサンガの銀杏旅館で筋田さんの子供として学校に通ったり仕事をしたりしているミナちゃん姉妹、兄弟5人の実家のあるラムチェ村を訪問しました。
4/25日の大地震で最も被害のひどかったのが、ラムチェ村のあるシンドパルチョーク郡です。
ラムチェ村のことについては、予備のカメラに写っていた写真で10/11日に 15度目のネパール① として簡単に報告してあります。
2015.10/5日(月)
この日ははメールダラからラムチェ村に移動です。
午後、ミナちゃんの実家に到着。
ミナちゃんの実家も全壊となっていました。
もともとあった家はこれです。(2013年11月訪問時)
家の後ろには切り立った山がせまっています。
私たちがお世話になった3日間は、長男パンネくんのお嫁さんのウルミラちゃんが料理を作ってくれたことは10月の報告にも書きました。
ラムチェ村は標高が高いのでお米はとれず、コド(ヒエ?)が栽培されています。
ミナちゃんのお父さんたちは壊れた家の一段上の段々畑をつぶしてそこに仮住まいを作って住んでいました。
三方と屋根をトタンで囲っただけで前面はオープンですから、夜は蚊の襲来で大変でした。 蚊が嫌だからとベルギーの三人はテントで寝ることにし大正解。
この日はミナちゃんの家族との交流だけで終わりました。
2015.10/6日(火)
ラムチェ村の2日目は村の様子と学校の様子を見に行きました。
最初に、この村で有名な “大きな岩” という意味の “ トゥロ・ドゥンガ ”へ。
昔、昔のその昔、山から落ちてきたものなのでしょうか・・・ 部屋の大きさで言うと10畳くらいはありそうな大きな岩がうまい具合に平らに山からせり出すようにあります。
眺めはいいですが、端の方に行くと今にも落ちそうでこわかったです。
村の家々はすべて地震後の国の調査で使用不可のレッテルを張られ、以前お伝えしたようなトタンの仮住まいでくらしています。
10月にも紹介したトタン利用の仮住まい。
大きな木の下にチョウタラと言われる休憩所があり、お年寄が集まっていました。
このあと近くの中学校へ。 校舎はやはりトタン利用の仮校舎です。
これは以前使っていた校舎。 外観は何ともないようですが・・・
中はこんな具合で使用不能。
すぐ近くの小学校の仮校舎ものぞいてみました。
トタンで囲った校舎を3つに仕切って使用。(段々畑の一部に作ってあり庭は全くありません)
授業中の子供たち。
隣には竹で作られた校舎もありました。
午後にはミナちゃんの家の近くの生活道路の補修の見学に行きました。 少し遅かったせいで、すでに作業は終わってみんな家に引き上げるところでした。
これは、2013年11月に訪れたときの写真ですが、人一人通るのが精いっぱいのみんなの生活道路です。
この道路の補修でしたが、残念ながらこの時の写真がありません。
毎日、一軒から一人は労働奉仕に出ているとのこと。 自分の家よりも、まずみんなの使う道造りから・・・ ということのようです。
2015.10/7日(水)
3日目はもう銀杏旅館のあるサンガに戻らなければいけません。
足に自信のある ベルギーのエディ、マークと筋田さんは歩いて山をおりました。
フランソワーズ、私、ミナちゃん、それに足を痛めていたパンネくんはジープで山を下りました。
下の街・バラビシェで落ち合い一緒の車で途中の街バネパまで戻り、昼食を済ませて銀杏旅館へと戻りました。
行きには気がつかなかったのですが、途中のラムチェ村に近い街の風景です。 大震災から6ヶ月、まだまだ復興には程遠い道のりのようです。
翌日一日銀杏旅館やサンガの街に出たりしてのんびりし、その翌日にはもう日本に戻るため10:00にはサンガの銀杏旅館を後にしました。
ネパールでの実・行動日数6日はなんと短い・・と思いました。
以上で 15度目のネパール 4.25大地震後の初ネパールの報告を終わりに致します。
※ 家庭の事情でゆとりを持った日程でネパール訪問ができなくなりました。
当分の間は1週間の訪問がせいぜいかと思われます。
私の支援したメールダラの小学校はなくなってしまいました。
大変お世話になった銀杏旅館の筋田さんにも何の相談も無く・・だったそう
です。
そんなこともあり、私もふりだしに戻り、新たな支援先を探そうかと考えている
ところです。
4/25日の大地震で最も被害のひどかったのが、ラムチェ村のあるシンドパルチョーク郡です。
ラムチェ村のことについては、予備のカメラに写っていた写真で10/11日に 15度目のネパール① として簡単に報告してあります。
2015.10/5日(月)
この日ははメールダラからラムチェ村に移動です。
午後、ミナちゃんの実家に到着。
ミナちゃんの実家も全壊となっていました。
もともとあった家はこれです。(2013年11月訪問時)
家の後ろには切り立った山がせまっています。
私たちがお世話になった3日間は、長男パンネくんのお嫁さんのウルミラちゃんが料理を作ってくれたことは10月の報告にも書きました。
ラムチェ村は標高が高いのでお米はとれず、コド(ヒエ?)が栽培されています。
ミナちゃんのお父さんたちは壊れた家の一段上の段々畑をつぶしてそこに仮住まいを作って住んでいました。
三方と屋根をトタンで囲っただけで前面はオープンですから、夜は蚊の襲来で大変でした。 蚊が嫌だからとベルギーの三人はテントで寝ることにし大正解。
この日はミナちゃんの家族との交流だけで終わりました。
2015.10/6日(火)
ラムチェ村の2日目は村の様子と学校の様子を見に行きました。
最初に、この村で有名な “大きな岩” という意味の “ トゥロ・ドゥンガ ”へ。
昔、昔のその昔、山から落ちてきたものなのでしょうか・・・ 部屋の大きさで言うと10畳くらいはありそうな大きな岩がうまい具合に平らに山からせり出すようにあります。
眺めはいいですが、端の方に行くと今にも落ちそうでこわかったです。
村の家々はすべて地震後の国の調査で使用不可のレッテルを張られ、以前お伝えしたようなトタンの仮住まいでくらしています。
10月にも紹介したトタン利用の仮住まい。
大きな木の下にチョウタラと言われる休憩所があり、お年寄が集まっていました。
このあと近くの中学校へ。 校舎はやはりトタン利用の仮校舎です。
これは以前使っていた校舎。 外観は何ともないようですが・・・
中はこんな具合で使用不能。
すぐ近くの小学校の仮校舎ものぞいてみました。
トタンで囲った校舎を3つに仕切って使用。(段々畑の一部に作ってあり庭は全くありません)
授業中の子供たち。
隣には竹で作られた校舎もありました。
午後にはミナちゃんの家の近くの生活道路の補修の見学に行きました。 少し遅かったせいで、すでに作業は終わってみんな家に引き上げるところでした。
これは、2013年11月に訪れたときの写真ですが、人一人通るのが精いっぱいのみんなの生活道路です。
この道路の補修でしたが、残念ながらこの時の写真がありません。
毎日、一軒から一人は労働奉仕に出ているとのこと。 自分の家よりも、まずみんなの使う道造りから・・・ ということのようです。
2015.10/7日(水)
3日目はもう銀杏旅館のあるサンガに戻らなければいけません。
足に自信のある ベルギーのエディ、マークと筋田さんは歩いて山をおりました。
フランソワーズ、私、ミナちゃん、それに足を痛めていたパンネくんはジープで山を下りました。
下の街・バラビシェで落ち合い一緒の車で途中の街バネパまで戻り、昼食を済ませて銀杏旅館へと戻りました。
行きには気がつかなかったのですが、途中のラムチェ村に近い街の風景です。 大震災から6ヶ月、まだまだ復興には程遠い道のりのようです。
翌日一日銀杏旅館やサンガの街に出たりしてのんびりし、その翌日にはもう日本に戻るため10:00にはサンガの銀杏旅館を後にしました。
ネパールでの実・行動日数6日はなんと短い・・と思いました。
以上で 15度目のネパール 4.25大地震後の初ネパールの報告を終わりに致します。
※ 家庭の事情でゆとりを持った日程でネパール訪問ができなくなりました。
当分の間は1週間の訪問がせいぜいかと思われます。
私の支援したメールダラの小学校はなくなってしまいました。
大変お世話になった銀杏旅館の筋田さんにも何の相談も無く・・だったそう
です。
そんなこともあり、私もふりだしに戻り、新たな支援先を探そうかと考えている
ところです。