20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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「佐藤友哉は拒絶する」

2009年04月11日 | Weblog
 昔からの作家の友人、原のぶ子改め、原りんりさんから、同人誌「文学横浜」(文学横浜の会刊)をご恵贈いただきました。

 原のぶ子といえば、青森の、いわゆる北限の猿を取材して書かれた『シゲちゃんが猿になった』(新日本出版社刊)で、日本児童文学者協会新人賞を受賞された作家です。
 重厚なリアリズムの文体で対象から目をそらさず、ぎしぎしと書いていくタイプの作家です。
 けれど残念なことに、その後、原のぶ子は病にかかりしばらく書くことから遠ざかっていました。
 それでも体調がいいときには、ぶらりと「Be-子どもと本」という友人たちでやっている研究会に現れ、鋭い意見をのべて帰るといった、友だちとしてのつながりはその後もずっと続いています。
 その彼女の興味は闘病中、どうやら児童文学から大人の文学に移行していったようで、今回この「文学横浜」に書かれているエッセイも佐藤友哉論を中心にした、いまのラノベのわからなさについてです。
 タイトルは「佐藤友哉は拒絶する」なんとも刺激的です。
 
 このなかで、原りんりが書いているのは、主にライトノベルの作家(メフィスト賞の周辺)についてです。
 彼女の書かれたものに私はとても合点がいって、おもわず「うん、そうそう」とうなずきながら 読んでいました。
 この難解さを支持する中心に、いまをときめく、あの『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の著者である東浩紀がいて、彼は昨年出版した『コンテンツの思想』のなかで、「戦後日本が作り出してきたサブカルチャーの分析において、伝統的な「批評」「研究」の蓄積がほとんど役立たない・・・」と書いているそうです。
 東浩紀といったら、いまや、ポストモダン時代の浅田彰をしのぐカリスマ性を持った批評家です。
 その彼らがやろうとしている「ブンガク」の方向が、この「わからなさ」を含め、いずれ十年くらいしたら主流の流れになっていくのではないかと、原りんりは書いているのです。

 先日、「日曜美術館」で江戸時代の絵師、曾我簫白を取り上げていました。彼は「破壊と闇の絵師」と呼ばれ、当時はその難解さと前衛性ゆえに、まったく評価されていなかった絵師だったようです。
 その曾我簫白を論じていたのが、現代美術の旗手・村上隆です。
 欧米を中心に、村上隆はすごい人気を博している現代美術のカリスマですが、正直言って私は、彼から曾我簫白論を聞くまで、彼のよさ、すごさがわかっていませんでした。(ヴィトンとコラボしたあの目玉のデザインをみたら、まさに「私は拒絶する」です。あのポップさがいいと、人は言うのかも知れませんが)
 細かい言葉ひとつひとつは忘れてしまいましたが、そのとき、私はたしかに、村上隆を「すごい!」と思いました。「そうか、そういった思いの延長線上に、あの目玉はあったのか」と。
 理路整然とした彼の、説得力のある論理に。

 原りんりが書いた、メフィスト系のラノベ作家たちはなぜここまで評価されるのか。佐藤友哉にしても、同じく三島賞をとった中原昌也にしても、この「難解さ」を紐解く手段、あるいは方法を見つけ出さない限り、私たちの世代と彼らとは、ずっとパラレルな思考回路のままでいくことになるのかもしれません。(ちなみに、あの浅田彰さえ、中原昌也は難解だといってるくらいですから)
 
 その点、児童文学のライトノベルはまだわかりやすいです。けれどいずれ、児童文学の「佐藤友哉」「中原昌也」といった若い作家が台頭してくるのは時間の問題かも知れません。
 原りんりから、鋭い問題提起をもらったような気がしました。
コメント
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