先週の「てんがらもんラジオ」は鹿児島市ではじめて「子ども食堂」をつくられた斎藤美保子さんの話でした。その話の感想として、子ども世代に対し親世代はその社会の最良のものを提供するべきだという思いを述べました。
学校給食の場合も教育行政の効率性、要するにどれだけ財政的に節約できるかが判断の基準になってしまう、子どもの心身の成長を基準にするという当然のことがわきに置かれてしまっているのではないか、私の町の「学校給食センター問題」について思わざるをえませんでした。
今回の「てんがらもんラジオ」で強く印象に残ったのが向井さんの無窮洞の話です。
無窮洞とは、
この矢印のようなものはグーグルマップによります。
内部です、
この案内板には書かれていませんが、1945年8月9日長崎市から多数の原爆被爆者が運ばれてきましたが、生き残った人はいなかったと向井さんの話です。
長崎市との地理的には、大村湾の対岸。
上空から見ると、
写真の小学校が当時もあってそこの教師と児童たちが掘り、つくりあげっていったのでしょうか。
全国的に見ると昭和18年の10月には学生・生徒の徴兵猶予特権が停止され、21日3万人の学生が学徒出陣しています。この5月には日本軍の敗北がはじめて公表されました、アッツ島での守備隊2500人の全滅です。
このような状況のなかで、教師と生徒児童の手によって防空壕を兼ねた洞窟学校が作られていたことに深く心を打たれました。その名を無窮洞と付けた思いが胸に伝わってきます。
無窮洞の窮は文字通り穴に身を閉じ込めることです、置かれた状況のなかに押し込められながらも窮すれば通ずる、永久のものに繋がることを信じた人々はそれを子供達の未来に託したのです。未来のために子供のために、持てる最良のものを託そうと無窮洞はつくられたのでしょう。
当時その作業に参加した80余歳の方が案内されているとのこと、その方の案内で見学したいものです。当時の光景と大人の思い子供の気持を生の声で伺いたい、もちろん無窮洞の入口までのガイドは向井明美さんです。