日本国憲法が新憲法として施行された1947年、私は10歳でした。今日が憲法記念日で施行70年の節目で、自分の歳とも重ねた思いがあります。
さて1947年の10年前にこんな川柳が詠まれていました。
手と足をもいだ丸太にしてかへし
この川柳について、作家田辺聖子さんは、
「プロレタリア川柳の代表句といわれている作品。昭和十二年の作である。そこが凄い。
戦後に復員兵や傷病兵がよんだのではない。
日中戦争のまっただなかで、川柳作家が堂々と発表している。
(略)
たった十七文字であるが、ここには非情な国家権力に対する民衆の腹の底からの怒り、弾劾がある。
川柳の皮肉なお笑いをうわべに湛えつつ、底には煮えくりかえるものがある。
あの思想弾圧のきびしい昭和初期、こういう句を発表するのは命がけである。
事実、鶴彬(つるあきら・この川柳の作家)はこれにつづく一連の作品によって検挙され、十ヶ月後、獄死する。」
と書かれています。(『川柳でんでん太鼓』)
これにつづく一連の作品とは、
高梁の実りへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげていった手を大陸において来た
胎内の動きを知るころ骨がつき
田辺さんの一言
「中国大陸は高梁がみのっている。平和な農村の高梁畠を容赦なく踏み荒す戦車と靴は日本軍のそれなのだ。その侵略のさまを写すニュース映画は、皇軍大勝利の勇ましいシーンばかりで、草むす屍、水漬く屍は出てこない。
名もなき兵は屍と朽ち、あるいは手足を失い、その手は大陸の土となるのである。
男が遺骨となってかえるのに、そのころ女は胎動を感じているではないか。父の顔を知らぬ子が生まれようとしている。この民衆の慟哭。」
この五句と先の句を合わせた六句が特高(特別高等警察)によって鶴が検挙される引き金になったものです。(『三省堂 名歌名句辞典』)
さらに、田辺さんは、「小林多喜二が東京築地署で拷問で死んだのは昭和八年……」とも触れて、この時代の思想弾圧が強烈極めていたことを記し、
「昭和十二年頃はというと、すでに左翼作家や評論家は執筆を禁止されている。日中戦争は七月におこり、メーデーはその前年に禁止されている。」
その時代のなかで、なぜ川柳誌にこのような句が発表され得たのか、現代でも「俳句は上、川柳が下」的理解があるが、
「昭和十二年頃の特高もそういう気分でいたらしい。川柳にまさか、反戦、反政府、皇室を冒瀆・誹謗するような作品があらへんやろ、とタカをくくっていたふしがある。」
と述べています。
1937年・昭和十二年という生まれ年がどういう時代であったか、憲法施行の節目と合わせ振り返ってみました。明日、もう少し続けてみたいと思います。