kaeruのつぶやき

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自殺、生命の重さ。

2018-03-15 22:27:37 | 「てんがらもんラジオ」

このポスターについては、今日の「てんがらもんラジオ」での児島淳子さんの話をこちらで、http://www.ustream.tv/recorded/113618800

児島さんの話はポスターにあるように「3月は、自殺対策強化月間です」ということで、自殺という重い話です。その重さは自分を振り返ってみればわかります。

児島さんは、自殺を自分の身近なところで見るように言われました。自分に一番身近なのは自分です、そこで思い出したのは20年以上前ですから、50歳後半でしょう、何かがきっかけで自分を振り返り「死にたいと思ったことが無い」と気づいたのです。

自分に次いで近いのが妻です。私より4歳下の妻は4歳で昭和20年の敗戦を迎え、シベリア抑留された父親を待ちながら姉と母親との暮らしでした。ある時母親が二人を連れて鉄道自殺をはかりましたが、踏切の前で4歳時であった彼女が大泣きをしたのだそうです。三年ほど前、妻の案内でその踏切を見て来ました。

もう一人、義理の妹のことです。我が家の二世帯住宅の一方の居宅に父親が亡くなったあと妹が自活していました。うつ病が高じ自分で食事をつくれないので私達と食卓を一緒にするようになって一年以上経つでしょう。当初「死にたい」とも言っていたそうですが、医者の診療を受けながらですが現在はそのような状況からは脱しました。

自分のことに戻りますと、生命力ということが頭に浮かんできます。生まれたとき体重1500グラムほど、当時の条件のなかではまもなく死ぬと親も産院も考えたそうです、しかし生き抜いてたので母親が言うことには「お前は生命力が強い」と、それが私にはインプットされ信念となっています。

もう一つ思いつくのは、高校入学時のことです。入学試験に落ちて失意の時の日記を数十年後に読む機会がありました。実はこの落第は高校側の手違いが原因でした、がそれが分かったのはそこから50年くらい経ってからでした。当時は失意と恥ずかしさで自宅に閉じこもっていたという記憶だけでした。ですから日記のなかにはそれこそ「死にたい」というくらいのことが書いてあるかと思ったのです。ところが我ながら冷静に、しかしあくまでも自分が何か大きな落ち度をしてしまったのだろうと、書いていました。

読みながら考えたのは、当時の私はこれを書くことによって自分を客観視できたのではないかということです。今日の話にそっていえば、児島さんの言われた「自分自身が多面体」だと気付くことです。日記の効用、現在進行形でいえばブログとかフェイスブックの効用とも、「てんがらもんラジオ」にコメントを送ることにも同様のことが言えるでしょう。