ワイコマさんからのコメントに、葉山の美術館で「堀文子の白寿記念展」が明日までやってます、「お奨めです」と。有難く嬉しく読み、このブログを記そうと思いました。
この絵画展には先日行ってきたのですが、それは私よりは絵心のある妻が設定してくれたお陰でした。
実は瀬戸内寂聴の『いのち』について、今日の鎌倉散歩の報告のなかで触れようと思っていたのですがここで、
といいますのは、この小説のなかに堀文子の名前が出てきたのです、いや出てきた筈です。先程からあった筈と思いつつ、頁をめくり目を行に沿って走らせてみたのですが、無い。
以前でしたら、こういう場合、文字の方から目に飛び込んできたものです。いまは、なんだかショボショボし出した目で追っていると文字全体が眼帯のようになってきます。
堀文子展は、
堀文子の絵画、瀬戸内寂聴の小説、90歳代の己の命の表現、命の表現は命の証言とも言えるでしょう。人生の最終盤の証言台に立てば、誰に証言を求められる訳ではありませんが自ずから「証言を」という声が聴こえてきます。
表現手段は、小説家は小説で画家は絵で、ならばワタシは何をもって表現するか。
今日の鎌倉散歩は案内してくれる人がいて、三ヶ所を桜を訪ねながらの歩みでした。歩数計の話もあって、同じ3000歩とか一万歩でも、どういう時間が伴った歩数であろうか。寺の境内を歩くということでそんなことが頭に浮かんできました。
山地に抱えられた境内は、かなり歩いたなと思うと振り返りたくなります。そして同じ散歩でも、振り返りたくなる散歩散策の気持のありようの良さに気付きます。
90歳とか80歳、小説家はこれが最後の長編とか画家も大作はこれで……、とか言われる年代に普通のワタシは ?
? のままに……。