「墓場」とは、いま私たちの見ている「現実」、ここです「ガザ」、
「慰霊碑」とは、逗子市の市議会議員であり「逗子の歴史を学ぶ会」会員の加藤さんのFbをお借りして、去る10月20日の慰霊祭で、
今日、小坪の慰霊碑に関連して亡くなった子供のことを調べている方とお会いし、かなり詳しく教えてもらいました。その内容については会の例会を通じてお伝えできると思います。
ここでは、戦争というものが弱者なかでも子どもに如何に犠牲を強いるか、を大人として責任をもって心に刻まなければならないかと感じてきたことを書き留めておきます。
「ガザ」での「子どもの墓場」については画像を見てもらえればと思いますが、逗子の小坪の「砲台に消えた子どもたち」は、戦場でもなければ戦時中でもありません。
78年前の8月に終戦になり2ヶ月後に砲弾爆発によって、焼けただれて死んでいったのです。
その原因について、
出火の原因は子供がマッチを摺ったのではありません。壕の奥の方に入っていた5〜6人の男の一人が蝋燭が燃え尽きたと思って捨てたのが火薬に引火して爆発したのです。壕は奥のほうからトンネルになって出口があるので大人達はみな助かりました。入り口の方にいた子達がほとんどやられたのです。
と、今日の話の資料に、当時小学生3年だった地元の方の証言を記してありますが、その人のお兄さんが被爆して亡くなっています。
この「子供がマッチを摺った」という話が当時広がったのか、その後記されるものに「原因は子供がマッチ」とされるものが多くあります。
また今日話された中心は、何人の子どもが犠牲になったのか、でした。加藤さんは14名と書かれていますし、多くの記録には14名とあり氏名も分かっていますが、15とも16名とも記された記録も出てきてます。
来年の10月には新しい慰霊碑を元の砲台跡近くに建立し、全員の霊を祀ろうという遺族のあらたな思いです。そのためにも一人の霊ももらすことは出来ません、今後関係者の誠心を集め完全を期さねばなりません。
「逗子の歴史を学ぶ会」としては、半年先の6月22日の「集い」から、10月の新慰霊碑建立に向けて黒田初代会長の遺志に応えてと、思いを固める日になりました。