長い暑い夏が終わり、急に秋めいて、家の近くでもヒガンバナが咲き始めました。
家事をバタバタと片付け、ボビンレースのレッスンに出かけようと外に出ると、マンションの玄関先に
昨日はつぼみだったヒガンバナが咲き、見送ってくれました。
昨日、茶の湯の稽古の後に行ったスーパーの帰りのショートカットで、ヒガンバナが咲いているのを見て
びっくりしました。
どんなに暑い夏でも季節は秋をしっかり準備していました。
家の近くのヒガンバナが秋が来たことを知らせてくれました。
気温も肌寒さを感じるような今までの30度越えとは違います。
マンションの入り口にも
今朝、私を迎えてくれたヒガンバナ
これから咲くところ・・
襟は最後の糸の減らし方も難しく、また図面通りにはどうしてもならないところもあり
先生の全面ヘルプで出来上がりました。
Dressed to Kill と言うタイトルが笑っちゃうイギリス人の作品ですが、はずしてTシャツに当ててみたら
かわいかったです。
あと半分残っているのでまた始めなければなりません。
待っている時に眺めた月の句でした。
できません。
替りに漢詩のブログからお借りしました。
をさらいました。丘の上から船が入って来る時の蝶々夫人の心の動きを感じながら・・
久々に戻ってきたカレーラスの軽い曲のCDを音を落として、その声の広がりを聴いていました。そのあとは
北村朋幹の「黄昏に~ブラームス、リスト、ベルク作品集」聴きながら秋の始まりの夜を過ごして・・
投稿日:2022/08/17 (水)
人生、音楽、そして文化の黄昏に思いをはせる一枚。若さの中にも黄昏の萌芽はあるのか、若さゆえの感傷に黄昏の
要素が含まれるのか、いずれにしても若きブラームスのソナタが雄大に鳴り始めた瞬間から黄昏への歩みが始まる。
リストの小品には自身の人生への、そして意識していたのかは判らないが調性音楽への黄昏の予兆(そもそも人の感情
とは、調などでは表しきれない複雑なものなのだろう。リストはそこに到達したのかもしれない)を感じ取り、これを
引き継いだベルクのソナタも調性のみならず彼らの文化圏における黄昏を感じずにはいられない…。 何やら感傷的な
レビューになってしまう。「黄昏ちゃってるね~」と思われるかもしれない。が、これを聴かれればどなたも同じように
感慨にふけると思う。そして考える。北村朋幹の曲目構成と演奏はこういった感慨を呼び起こす。前作「夜の肖像」と
スタンスは同じ。音楽と文学・思索の要素をミックスしたような構成、それに溺れることなく理性的(かといってドライ
という意味ではない)に進められる演奏。楽譜から立ち上る「音の向こう側にあるもの」を探す旅を彼は今、している。
他の奏者ではなかなか味わえない読(聴)後感を感じたい方におすすめしたい。
まさしく音の向こう側にあるものの探究です。
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