2月25日
傳通院見た後は「こんにゃく閻魔」に向かいました。 前回見た不思議な澤蔵司稲荷は見ないで先に進みました。
坂の下の方から澤蔵司稲荷を見上げて・・・
澤蔵司稲荷の隣のお寺も古そうでした。反対側から来ると善光寺坂と呼ばれる坂を登るとあります。
小石川善光寺は、澤蔵司稲荷の東隣、伝通院より3分の地にある、浄土宗寺院。
天明年間に於大の方の念持仏「善光寺如来」を本尊として、縁受院として創建。近くにある傳通院の子院であったが、明治以降に長野善光寺の分院となった。境内は狭いが、伝通院や沢蔵司稲荷と異なり第二次世界大戦での戦災焼失を免れ、戦前からの堂宇が残る。
前回見た澤蔵司稲荷は素通りして、隣の善光寺を覗いてみました。
瓦も古そうです。
ここから少し遠回りして源覚寺に行きました。
源覚寺
寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。
本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)。
特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。
江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。
その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた。
現在の本堂は1979年に再建されたものである。
源覚寺HPより
戦争と深くかかわったお寺です。南の島で多くの船が沈みました。日本はそういう記憶を残していない国なのだと思いました。民間の船も多く犠牲になっています。保険会社に勤務していた祖父から上海に行き来していた時に前後の船が爆撃にあって沈められたという話を聞いたことがありました。
最初お寺に南洋のものがあって違和感がありましたが、後世にもっときちんと伝えるべきものと思いました。せめてここにあって伝えていってほしいと思います。
汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL
1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、囲碁消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。
南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
昭和50年7月18日
ここで御朱印をいただきましたが、若い女性がサラサラッと書いてくれました。家でスマホで写真を撮ろうとしたら、なんと左上の印鑑の真ん中がQRコードになっていました。進んでる~
こんにゃく閻魔のあるお寺の前は古いお店が並んでいて、ずっと昔、子どもが小さい頃主人と一緒に車で小石川植物園の時に迷って通った商店街がありました。その時、古くてタイムスリップしたように不思議な感じがしましたが、今でもあまり変わっていないようです。
白山通りから春日通りを曲がって茗荷谷方向に歩き、400年近く操業している澤蔵司稲荷のゆかりのお蕎麦屋さんに入ることができました。
萬盛では女将がてきぱきと接待をしていました。400年の歴史があるお店ですが、ビルの1階に入っていて古い感じはしません。お蕎麦も普通においしかったです。気持ちのいいお店でした。お得なランチセットにしてしまいましたが、朱塗りの入れ物に冷たいお蕎麦と油揚げが乗っているのが澤蔵司稲荷に献上しているお蕎麦でした。私が残念がると女将が澤蔵司の好物は天ぷらそばと言われていると教えてくれました。当時の天ぷらと今の天ぷらそば違うけどねと。
Feb.25 2021 Zenkoji & Genkakuji
この時はこんにゃく閻魔の後で道がわかったら樋口一葉が住んでいたところあたりに行ってみようかとも思っていたのですが、わかりにくくて、お蕎麦屋さんまですぐ戻ってしまいました。。
永井荷風や石川啄木、、夏目漱石などの作家たちがこの辺を歩いていたのですね。
次回は樋口一葉の世界から幸田文の家まで文学散歩してみよう・・・