10月26日 北とぴあ さくらホール
北村朋幹 フォルテピアノ・リサイタル - シューマン《幻想曲》をめぐって
内 容:「卓抜な詩的感性、そして哲学的叡智を具えた芸術家」と評されるピアニスト、北村朋幹が初めて日本で行う
ピリオド楽器でのコンサート!
使用楽器:ヨハン・クレーマー 1825年ウィーン製(タカギクラヴィア所蔵)
Program
ベートーヴェン/リスト:
ミニョン S.468-1 《ベートーヴェンによる6つのゲーテ歌曲集》より
連作歌曲集《遥かなる恋人に寄す》S.469
シューマン:
管弦楽のない協奏曲 op.14(1836) より
“変奏曲風に”(後に削除された2つの変奏曲を含む、自筆譜に基づく版)
リスト:
オーベルマンの谷 S.156-5 《旅人のアルバム》より
***
シューマン:
幻想曲 ハ長調 Op.17
※使用する版の変更に伴い、曲名表記を以下のとおり変更いたします。(2024.10.3追記)
【変更前】
シューマン:
ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op. 14 より 第3楽章
“変奏曲風に(クララ・ヴィークのアンダンティーノによる)”
↓↓↓
【変更後】
シューマン:
管弦楽のない協奏曲 op.14(1836) より
“変奏曲風に”(後に削除された2つの変奏曲を含む、自筆譜に基づく版)
Encore
シューマン: アルバムの綴り Op.124より Ⅷ. 終わりのない痛み Ⅺ. ロマンス
こどものためのアルバム Op.68より ⅩⅣ. 小さな練習曲 XXXV. ミニョン 隠れているカッコウ
初めて行く王子にある 北とぴあ さくらホール。2階はわからないけど1階はほぼ満席でした。
遥か彼方からひとすじの光が差し込んでくるような北村朋幹の演奏でした。
稀に聴く演奏会。
生きている音。「フォルテピアノが一緒に室内楽をしている相手のように感じる。ものではなく。仲間。」
と北村朋幹が最後にコメントしていました。
主役はこのピアノですと紹介されたヨハン・クレーマー
フォルテピアノをメンテしているタカギクラヴィアでの練習が楽しい時間だったと最後にコメントがあり、
アンコールが1曲終わった後で、そこで小品を弾いているのが幸せな時間だった話して、その場で思いつく曲を
数曲弾いていて、それが美しくて、今回のコンサートでは彼自身が一番楽しんでいるように思いました。
まるでタカギクラヴィアにでもいるように・・リラックスしたとても素敵なアンコールでした。
幻想曲では泣いているようにも見えました。今回は前から4番目の中央に近い席でした。
フォルテピアノはデリケートな楽器で、日によって違う音が出て、生きているようだったと。
家に帰ってアンコールを確認するためにYouTubeで聴こうと思ったらピアノだと音が強すぎて聴けなかった。
同じ曲とも思えなかったし。
その音はギターのようでもあり、ハープやハープシコードのようでもありました。曲の聴き始めは全くピアノと違うと
その優しい音色を思ったのですが、聴いているうちに慣れてきてしまいます。幻想曲も同じ曲かと思ったくらいでした。
古楽器の音色の豊かさは深いですね。低い音はモヤモヤっとして、高音はキラキラしていました。何か新しいものの
創造のようでした。軽やかでもあり・・
演奏を聴きながら人が生きていることを考えさせられました。何のために。何を一生かけて追及していたのか・・・
一村や北村朋幹や芭蕉(最近舞台を見たので)等その人生において目標がはっきりしている天才や普通の人々の。
自分は生きていてこれをやったとかやり遂げたというものはあるのか・・
父や母の顔も浮かんで・・ 子供の頃貧しかった家にピアノが来たのは祖父のおかげ。音楽にそんなに興味はなかった祖父
だったけど。ピアノほど高価なものはなかった子供時代。今またそのピアノをやりたいと思ってリフォームで弾きやすい環境に
したのだけど。子供の頃、母が頼んだのだと思うけど、今改めて祖父に感謝の想いです。シューマンのこどもための曲を
弾いてみたくなりました。
あらためて自分は何のために生まれて来たのかと思ったり。そんなことをいにしえからの光の中の音楽会で思い起こさせられました。
休憩時間中も念入りな調律が行われていました。
制御するのも難しそうな楽器です。
― 北村朋幹さんからのメッセージ ―
なにか古いものに触れる時、いつもよりもそっと手を近づけてみたりするのは、長い時間の香りのするとても繊細そうなそれを
壊してしまわないように、という無意識な心のはたらきだろうか。
そんな風にして、しばらく鍵盤に触れていると、指先を通して、楽器の内部にある1つ1つの部品の動きが敏感に感じられる気が
してくる。実際にピアノという楽器の巨大な躰の中では、鍵盤が下ろされてハンマーが弦を叩き、我々の耳に音が届くまでに
いくつものとても細かな運動が行われている。
そういったからくりの全てを、かつては人が手作業で、作っていた。
その楽器を作った人の“手”、そしてその楽器が歩んできた”道”、それら全てが楽器には完全に染み付いているから、かれらは唯一無二
の個体である。
という風に考えれば、それは人間にも少し似ているのかもしれない、という事が許されるくらいに、今、我々は彩り豊かなそれぞれの
道を歩むことが、果たしてできているのだろうか?
ピアノという楽器が一気に華やいだ19世紀に作られた音楽もやはり、それぞれが手作りで、それゆえに個性的で、一筋縄ではいかない。
それらと向き合うことは、古い楽器と触れ合うやり方ととても似ている。
そっと触れて、耳を傾け、理解しようと試みて。
ピリオド楽器、指揮、現代曲、リストの追求などいろいろなことに挑戦して、これから先も目が離せない
音楽家です。
この日は私の大好きなシューマンをたくさん弾いてくれて大満足な一日でした。
Oct. 26 2024 Ohji
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