もう連休近くになっているなんて、時間おくりが早すぎない?
年を取ると時間が過ぎる感覚が変わってきます。いろいろなことがはかどらなくて、
何か騙されているような感じがします。こちらの処理能力が落ちただけなのかもしれ
ませんが。残されている時間が少ないのに、倍速になるなんて・・ 何か損しているような
感じがします。
私のブログはのんびり進んでいます。
4月1日
午前中は千鳥ヶ淵で桜を楽しんで、九段から早稲田まで地下鉄で移動しました。
疲れてすぐ帰ろうか迷いましたが、今年最後の神田川の桜を見て、運が良ければ
カワセミに会えるかもと期待もしながら、始めて早稲田駅から歩きました。
地上に出るとなんと雨が少し降り始めていました。たいした雨でなかったので歩きはじめると
何と早稲田の入学式が終わったところのようでした。喜びにあふれる界隈を歩くと
やっぱり大学のある街、学生街の独特の雰囲気。私が通った大学は町中にあり、
そんな雰囲気はまったくなくて・・・
道を間違えたらしく、もろに早稲田の正門に出て、早稲田ビールを売っている人に
神田川に抜ける道を聞きましたが、その前に大隈庭園に初めて入れるので、お庭を回りました。
今までリーガロイヤルからどうやっていくのかと思っていたけど、ホテルの庭のように
大隈庭園があるのですね。降っていた雨もすぐやみました。
庭には中国や韓国関連のものが多くあったので調べたら早稲田ウィークリーに説明が
載っていたので、写真を撮ったものだけ、説明を引用しました。写真は取らなかったけれど
留学生が孔子像の前で、おそらく入学式に来た家族と共に立ち止まって話していました。
アジアと関連が深い大学だったのですね。私の元の職場の直接の先輩が、もともと史学科だったの
ですが、中国語を続けていて以前の都立大の教授になり、その後早稲田に研究室を持っていたことを
今思い出しました。北京大学にも交換で行っていた時期もあり、カードが北京から送られて
来た時もありました。ものすごく腰が低く、そして明るく聡明な先輩です。数年前、主人が亡くなる
数日前に会うことができて、容体があまりよくなかったので、再会の喜びと今の大変な状態と
一緒になり抱き合って泣いてしまった思い出のある方です。
大隈庭園は天保(てんぽう)年間(1830~44年)にこの地が彦根藩井伊家・高松藩松平家の下屋敷で
あったときに作庭された「池泉回遊式庭園」で、「近江八景」を築庭・造庭のモチーフとした大名庭園
であったと言われています。明治維新後に転々と所有者が代わりましたが、1874(明治7)年に大隈重信
が購入し別邸としました。
さらに1882(明治15)年には別邸に隣接する土地を東京専門学校(現、早稲田大学)開設のために入手。
当時、大隈重信は現在の九段下付近、雉子橋(きじばし)に本邸を構えており、西洋館と洋風造りの庭園
を有していましたが、1884(明治17)年に早稲田の別邸に移転し、そこを本邸としました。そして、
江戸の面影が残る元別邸の庭園を、自然律に従った文人風に改造したそうです。また、園芸に熱心だった
大隈重信は庭園内に温室や菜園を設け、洋ランやヤシ、菊、メロンなど、さまざまな植物を栽培し、盆栽
も数多く手掛けていました。
1922(大正11)年の大隈重信の没後、庭園は邸宅と共に大学に寄贈・公開され、東京の新名所となりま
したが、1945(昭和20)年5月の空襲で庭園は廃虚と化しました。しかし、多くの人々の努力により、
ほぼ昔の景観通りに復元され、今日に至っています。
大隈庭園内には、植物と共存するように建築物や銅像、記念碑、石造などが点在しており、一見すると
なぜここに? と思うこともあるかもしれません。しかし、全て早稲田大学が歩んできた歴史と深い
つながりがあるのです。
中華民国獅子像
大隈ガーデンハウスに通じる門の両脇にある獅子像は、早稲田大学創立100周年を記念して、台湾校友会
から寄贈されたものです。台湾や中国における獅子は空想の霊獣であり、左右一対を成しています。元は
百獣の王ライオンがオリエント、インドを経て中国にも伝わり、麒麟(きりん)や青竜などが中国古来の
霊獣観と融合して唐獅子、そして日本のこま犬となっていきました。獅子像は守護像であることから、
台湾校友会の「これからも早稲田大学を守る」という願いが込められています。
エミレの鐘・韓鐘閣
大隈庭園入口から少し直進すると右側に見えてくるのが、エミレの鐘と韓鐘閣です。韓国の国宝である
新羅(しらぎ)の聖徳大王神鐘(通称「エミレの鐘」)の2分の1の複製品で、1983(昭和58)年に韓国
校友会から早稲田大学創立100周年記念として寄贈されました。もともとは大隈記念講堂内に展示して
いましたが、創立125周年を迎えるにあたり、韓国校友会から大隈庭園内に韓国伝統様式の鐘楼を寄贈
されたこともあり、2004(平成16)年にエミレの鐘を移設しました。
童子石・文人石
童子石・文人石は大隈ガーデンハウスへ通じる道にあります。童子石は朝鮮後期(19世紀初~中期)の作。
墓前に立てる石像で墓の守り主であり、死者の世話をすると言われています。文人石は陵墓を守る守護像で
朝鮮初期(15世紀)の作。早稲田大学創立125周年を記念して、2007(平成19)年に千信一高麗大学校
校友会会長(当時)から、童子石、文人石、済州童子像、法首の韓国守護神石像4対8体が寄贈されました。
(写真は文人石のみ)
完之荘(かんしそう)
リーガロイヤルホテル東京に接するように建つ完之荘は、1952(昭和27)年に校友で実業家の小倉房蔵氏
(1908年商科卒)から寄贈された建物で、その名称は氏の雅号「完之」にちなんだものです。飛騨の山村に
残っていた推定600~700年前の古屋を小倉氏が自身の邸内に移築し愛用していました。現在、完之荘は
大隈邸の茶室があった辺りに建っています。柱は天然の栗材で、全て直接礎石上に立っているのが特徴で、
いろり、火鉢、自在鈎(かぎ)、縁先の手水(ちょうず)や石門などは昔のままであり、建築学上貴重な資料
となっています
説明は
なぜここにある!? 大隈庭園の銅像・建造物
2018年度 創立記念特集 大隈庭園探訪【前編】
Wasedaウィークリー 15 Oct. 2018 より
リーガロイヤルホテルを抜ければすぐ神田川沿いに出ます。
April 1 2019 Waseda
年を取ると時間が過ぎる感覚が変わってきます。いろいろなことがはかどらなくて、
何か騙されているような感じがします。こちらの処理能力が落ちただけなのかもしれ
ませんが。残されている時間が少ないのに、倍速になるなんて・・ 何か損しているような
感じがします。
私のブログはのんびり進んでいます。
4月1日
午前中は千鳥ヶ淵で桜を楽しんで、九段から早稲田まで地下鉄で移動しました。
疲れてすぐ帰ろうか迷いましたが、今年最後の神田川の桜を見て、運が良ければ
カワセミに会えるかもと期待もしながら、始めて早稲田駅から歩きました。
地上に出るとなんと雨が少し降り始めていました。たいした雨でなかったので歩きはじめると
何と早稲田の入学式が終わったところのようでした。喜びにあふれる界隈を歩くと
やっぱり大学のある街、学生街の独特の雰囲気。私が通った大学は町中にあり、
そんな雰囲気はまったくなくて・・・
道を間違えたらしく、もろに早稲田の正門に出て、早稲田ビールを売っている人に
神田川に抜ける道を聞きましたが、その前に大隈庭園に初めて入れるので、お庭を回りました。
今までリーガロイヤルからどうやっていくのかと思っていたけど、ホテルの庭のように
大隈庭園があるのですね。降っていた雨もすぐやみました。
庭には中国や韓国関連のものが多くあったので調べたら早稲田ウィークリーに説明が
載っていたので、写真を撮ったものだけ、説明を引用しました。写真は取らなかったけれど
留学生が孔子像の前で、おそらく入学式に来た家族と共に立ち止まって話していました。
アジアと関連が深い大学だったのですね。私の元の職場の直接の先輩が、もともと史学科だったの
ですが、中国語を続けていて以前の都立大の教授になり、その後早稲田に研究室を持っていたことを
今思い出しました。北京大学にも交換で行っていた時期もあり、カードが北京から送られて
来た時もありました。ものすごく腰が低く、そして明るく聡明な先輩です。数年前、主人が亡くなる
数日前に会うことができて、容体があまりよくなかったので、再会の喜びと今の大変な状態と
一緒になり抱き合って泣いてしまった思い出のある方です。
大隈庭園は天保(てんぽう)年間(1830~44年)にこの地が彦根藩井伊家・高松藩松平家の下屋敷で
あったときに作庭された「池泉回遊式庭園」で、「近江八景」を築庭・造庭のモチーフとした大名庭園
であったと言われています。明治維新後に転々と所有者が代わりましたが、1874(明治7)年に大隈重信
が購入し別邸としました。
さらに1882(明治15)年には別邸に隣接する土地を東京専門学校(現、早稲田大学)開設のために入手。
当時、大隈重信は現在の九段下付近、雉子橋(きじばし)に本邸を構えており、西洋館と洋風造りの庭園
を有していましたが、1884(明治17)年に早稲田の別邸に移転し、そこを本邸としました。そして、
江戸の面影が残る元別邸の庭園を、自然律に従った文人風に改造したそうです。また、園芸に熱心だった
大隈重信は庭園内に温室や菜園を設け、洋ランやヤシ、菊、メロンなど、さまざまな植物を栽培し、盆栽
も数多く手掛けていました。
1922(大正11)年の大隈重信の没後、庭園は邸宅と共に大学に寄贈・公開され、東京の新名所となりま
したが、1945(昭和20)年5月の空襲で庭園は廃虚と化しました。しかし、多くの人々の努力により、
ほぼ昔の景観通りに復元され、今日に至っています。
大隈庭園内には、植物と共存するように建築物や銅像、記念碑、石造などが点在しており、一見すると
なぜここに? と思うこともあるかもしれません。しかし、全て早稲田大学が歩んできた歴史と深い
つながりがあるのです。
中華民国獅子像
大隈ガーデンハウスに通じる門の両脇にある獅子像は、早稲田大学創立100周年を記念して、台湾校友会
から寄贈されたものです。台湾や中国における獅子は空想の霊獣であり、左右一対を成しています。元は
百獣の王ライオンがオリエント、インドを経て中国にも伝わり、麒麟(きりん)や青竜などが中国古来の
霊獣観と融合して唐獅子、そして日本のこま犬となっていきました。獅子像は守護像であることから、
台湾校友会の「これからも早稲田大学を守る」という願いが込められています。
エミレの鐘・韓鐘閣
大隈庭園入口から少し直進すると右側に見えてくるのが、エミレの鐘と韓鐘閣です。韓国の国宝である
新羅(しらぎ)の聖徳大王神鐘(通称「エミレの鐘」)の2分の1の複製品で、1983(昭和58)年に韓国
校友会から早稲田大学創立100周年記念として寄贈されました。もともとは大隈記念講堂内に展示して
いましたが、創立125周年を迎えるにあたり、韓国校友会から大隈庭園内に韓国伝統様式の鐘楼を寄贈
されたこともあり、2004(平成16)年にエミレの鐘を移設しました。
童子石・文人石
童子石・文人石は大隈ガーデンハウスへ通じる道にあります。童子石は朝鮮後期(19世紀初~中期)の作。
墓前に立てる石像で墓の守り主であり、死者の世話をすると言われています。文人石は陵墓を守る守護像で
朝鮮初期(15世紀)の作。早稲田大学創立125周年を記念して、2007(平成19)年に千信一高麗大学校
校友会会長(当時)から、童子石、文人石、済州童子像、法首の韓国守護神石像4対8体が寄贈されました。
(写真は文人石のみ)
完之荘(かんしそう)
リーガロイヤルホテル東京に接するように建つ完之荘は、1952(昭和27)年に校友で実業家の小倉房蔵氏
(1908年商科卒)から寄贈された建物で、その名称は氏の雅号「完之」にちなんだものです。飛騨の山村に
残っていた推定600~700年前の古屋を小倉氏が自身の邸内に移築し愛用していました。現在、完之荘は
大隈邸の茶室があった辺りに建っています。柱は天然の栗材で、全て直接礎石上に立っているのが特徴で、
いろり、火鉢、自在鈎(かぎ)、縁先の手水(ちょうず)や石門などは昔のままであり、建築学上貴重な資料
となっています
説明は
なぜここにある!? 大隈庭園の銅像・建造物
2018年度 創立記念特集 大隈庭園探訪【前編】
Wasedaウィークリー 15 Oct. 2018 より
リーガロイヤルホテルを抜ければすぐ神田川沿いに出ます。
April 1 2019 Waseda
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