子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者樂、仁者壽、
子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。
巻第三 雍也第六
先生が言われた、「智の人は[流動的だから]水を楽しみ、仁の人は[安らかにゆったりしているから]山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きをする。」
※現代語訳は
論語の世界から引用させて頂きました。
論語が依然面白い。或る空の先輩は「女人小人扱いがたし」とよく言っていた。これが正しくは「唯だ女子と小人とは養い難しと為す」であり、その理由が「近づければ無遠慮になり、遠ざけると怨む」からであることも改めて確認した。
私は女人も小人も養うなどという趣味はないから特に支障はないが、人間社会には様々な性向の女性や器量の男性がいて、それなりの付き合いが必要な場合もあるから、人を見る眼は養っておかなければつまらない苦労をする。もっとも或る程度この種の苦労をしなければ人を見る眼はできないということも事実だろう。
「仁」は論語の中心概念とされる。私流に末キれば「慈愛」ということになる。「智」は智恵と理解して問題なさそうだ。さて、知者は水を楽しむ。なぜなら智の人は流動的だから。仁の人は山を楽しむ。なぜなら安らかにゆったりしているから。動と静の見事な対比だ。
では、風を楽しむ人はどうなるのか。また都会の喧騒を楽しむ人はどうなるのか。風は水以上に流動的で、都会は静けさの対極にある。さらに私のように山も水も風も、場合によっては都会も楽しむ人はどうなるのか・・・。
こんなことを孔子に聞いたら、「お前のように気の多い人間はとても長生きはできんぞ」と言われるかもしれない。今のところ100歳を目標にしてはいるのだが・・・。