庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

都知事選

2007-03-20 13:47:57 | 政治
遠く海を隔てた小さな地方都市に住んでいても、東京都の知事選には無関心ではいられない。この大都市は、私が1970年代から80年代の頭にかけて、青春時代の貴重な8年間を過ごした街だ。

この期間に、その後の人生の方向性がある程度決定したということがあり、今でも当時の友人たちとの交流が続いているということもあるが、それよりも、明治時代に完成した日本の中央集権構造の中心点がこの地であり、首都機能の分散化や権力の拡散と弱体化を本獅フ一つとする地方分権の流れに、ほとんど真っ向から対立する、国家主義バンザイの人間が行政権力の頂点にいる、ということが気になって仕方がないのだ。

まだまだ集権色の強い国家で、しかも愛媛のように保守的な県に住んでいると、東京の動きがほとんどそのまま地方の動きに連動するのがよく分かる。この地で相当にリベラルな論調の愛媛新聞が圧涛Iに広く読まれているのはちょっと奇妙な気もするが、それはともかく、この8年間の石原都政の右寄り路線は、この地方都市の政治にも確実に影を落としてきた。

たまに国に噛み付くパフォーマンスをして誤魔化そうとはしているけれども、彼ほど現政権と嗜好を同じくする首長はいないだろう。国民のために国家があるのではなく国家のために国民があるとする嗜好である。国旗国歌法が施行されてから、全国各地の同職者の先頭に立って東京都の教職員の皆さんがどれほど苦しい思いをしているか、教育基本法が改定されて教育の行政監視が強まれば、今後どれほどの苦しみを背負うことになるか・・・彼には想像すらできないであろう。

私が20歳代前半、1970年代のあの時代でさえ、学校教育の現場が行政の有形無形の干渉によっていかに歪んだものになっていたか・・・ある片田舎の中学校での教育実習のたった3週間の間にも私は痛いほど感じていた。教師が苦しめば感受性の固まりともいえる子供たちも苦しむのである。都民の多数派は、彼を三選して更に4年間この路線を突き進ませるつもりだろうか・・・ちょっと目が離せないところだ。

面白いのは、昨日、タレントの桜金造が立候補を表明したということで、その趣獅ェ「生存権と幸福追求権」。彼はある番組のインタビューで「幸福追求権は請求権ではない。引きこもりだってニートだって良いじゃないか、みんな自分らしく幸せを追求していけばいいのだ・・・」というようなことを言っていた。

その通りだ。簡単には外部社会に適応できない若者、適当な定職が見つからずにいる若者・・・一つの時代が行き詰って行き場を失ったような時に、新しい時代を開いていくのは、いつも大概こういう種類の青年たちだった。これからもきっとそうだろう。

私が東京都民なら彼に一票!・・・というところだが、とりあえず供託金の300万円が没収されることのないよう祈ることにしよう。