庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

リング

2007-03-27 10:37:00 | その他
夜の時間のある部分をテレビを観ることに使うのは久しい習慣になっている。家人のテレビ好きは相当なもので、その時間の浪費具合に、私は時々呆れたり稀に小言を言ったりすることもあるのだが、彼女のテレビとの付き合い方にはそれなりの流儀があるらしく、サスペンスものを除いてはその内容に関係なく、ただ画面をボンヤリ眺めていること自体に深いリラックス効果があるのだそうだ。まあ、私が空や海を眺めて得るものを彼女はテレビから得ているということだろう。

私の流儀は彼女のものとはかなり違って、ボンヤリ見るということはほとんどない。番組表をチェックして準備していた番組でも、その内容が薄かったり、製作者の意図が簡単に見て取れる時は、さっと見切りを付ける。ほとんどのバラエティー番組や一応の客観性を建前とする報道番組の多くがそうだが、番組製作者の意図そのものに興味があって観る場合もある。いずれにしても、それなりに注意深く観ているということになる。

現代社会におけるテレビの影響力の大きさは、改めて言うまでもなく莫大なものがあり、どんな情報でもこの媒体に載せると魔物的に増殖する。もちろん、魔物という点で同類の政治権力がこれを利用しないわけがなく、先の小泉総理のマスメディア利用の巧みさは実に見事だった。今の安部さんは小泉さんのほとんど足元にも及ばないように見える。それでも、私を含めて多くの国民は、依然多くの情報を送り手側のフィルターを通してしか見ることができないのだから、それなりの注意が必要なことに変わりはない。その「フィルターの色」を見抜くための注意である。

今回思い付いた記事とは方向が変わってきた。映画「リング」に話を戻す。昨夜はこれといって見たい番組がなかったので、パソコンテレビGyaoの映画から「リング2」を選んだ。ずいぶん以前に「リング」を見て、私はその内容の浮ウというより、この時代受けするテレビ・ビデオでのお膳立てと、きわめて日本的な情念の描き方に多少の感銘を受けていたのだ。「リング2」はもう8年も前の映画だが私は見てなかった。

登場する主要人物が、恐浮フビデオを見て死んだ教授の助手と息子に代わり、その教授の友人だった精神科医が、貞子の怨念を消費可能なエネルギーと考えて大量の水に転移し消滅させようという実験をする。これもなかなか面白い設定で、飽きることなく最後まで見た。さらにその横にあった、「リング0・バースデイ」というのも・・・結局、深夜の3時間ほどをかけてリング三部作の最後まで見てしまったのである。

リングのテーマを一言にすると「怨念」ということになるだろう。女性の怨念。もちろん男性も人を怨むことはあるが、男の怨みや怒りを映画にしたら、たいがいは威勢のいいヤクザ映画か戦争映画になる。

では、このやっかいな「怨(うら)み」という心の病はどこらから発生するのか・・・幾つかの次元から考察することができるが、貞子が落とされた古井戸が象徴するように、それは、内側に狭く暗く閉鎖した世界にある、と見ることはできないだろうか。西欧のホラーと比べて日本のそれの湿度が高く、その恐浮ノ何がしかの情念を伴うのはそのためでもあるように思われる。
(リング0では、何故か2つの人間に分かれた貞子の父の素性にその原因を臭わせて終わっている。このプロットでそのうち「リング3」が出るであろう)

人間が内面にはらんだエネルギーを発散し開放できる外側に開いた世界では、その怒りや怨みが厚く蓄積されることはない。また小さな怒りや恨みを、小刻みに移転できる家族や知人や友人を身近なところに持っている人間も、このマイナスエネルギーを過剰蓄積することはないだろう。これは個人だけのことではなく、あらゆる集団や国家についても言えることではないか。

ユネスコ憲章が「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とうたっている通り、あらゆる戦争の根本的な原因が人間の怒りや怨念にあるとすれば、その治癒は、それらを溜め込まないための方策を採ることに求めなければならないだろう。そして、そのためには、どんな人間集団も、閉鎖主義ではなく開放主義、国家主義ではなく世界主義を採用するしかないように思われるのである。