「ナショナリズムは子供がかかる病気で、人類の麻疹みたいなものだ」(Nationalism is an infantile sickness. It is the measles of the human race.) と言ったのはアインシュタインだった。
このブログはなるべく政治の世界からは遠いところに置いておこうと考えていたが、最近、日本という国家の行く末がやたら気になり始めたので、思うところを少しは書いておくことにした。政治の世界は変化が激しく結果も評価しやすいから、将来、私の拙い見方が、どの程度正しかったか、どの程度まちがっていたかの判断の良い材料になるだろう。
歴史はたいがい「動と反動」を繰り返しながら進展していくもので、もう少し言うと、単純な反復運動ではなく、ある方向に向かって進む円運動、つまり螺旋(らせん)的な展開をしているのではないか・・・と私は考えているのだが、戦後60年を過ぎた昨今の日本の政治は、あまりに反動色が強くはないか。国家主義への傾斜が激しくはないか。
日本人が近代的「個人」と「自由」の表皮を知ったのが明治の時代であったとするなら、それらを骨髄にしようとしたのが戦後の時代だったと言えるだろう。殊に明治中期から昭和20年までの日本は、西欧列強に対抗し得る近代国家の建設を富国強兵に託して、個人の自由を徹底的に抑圧した。その過程が無残な戦争の繰り返しであり、その結果が決定的な敗戦・亡国である。戦後の新憲法や自由主義教育のおかげで皮膚の下にだいぶ肉が付いてきたところだが、まだ血肉となるには至っていない。
どんな人も自分以外の人間に代わって生きることも死ぬこともできず、自分の思いや行動を誰にも邪魔されたくない存在である限り、個人も自由も元々あるもので、与えられるものでも作り出されるものでも有りようがないわけだが、それをさまざまな権威や権力によって見えなくしたり押さえつけたりしてきたのが、人類の歴史であった。自然権思想が説く通りであり、日本も例外ではない。
西欧諸国は一神教がベースだから、これを神から与えられた侵すべからざる人権とか言うのだろうが、人間が造った万能の神はその製作者の欲するものは何でも製造するからあてにはならない。あらゆる存在に限りなく尊い生命が宿るという、東洋的あるいは太古的世界観や自然観をもって、人類を含めた大自然の生き物たちを観れば、個人も自由も、人間が生まれつき持ち合わせた宿命とも運命とも言えるものであることは、当然の法則的事実だということが分かる。どこの世界に、Aという生き物が風邪を引いてBという生き物がくしゃみをすることやある。どんな生物が自らの本態に生死せざるものやある。
この自然世界の実相を深く観察し了得することによって、本当の意味での他者への思いやりや慈愛が自ずと湧き出し、それが調熟して社会性・道徳性とでも言うものが大小の人間集団を満たすのであって、安定した社会道徳や規範意識などは、いい加減な国家が作るいい加減な制度などによって生み出せるものではない。ましてや現首相が唱導する「美しい国づくり」などにおいておや、である。こんなことは、ついこないだの昭和初期から終戦までにかけての歴史が明確に証明しているではないか。
少し冷静に客観的に見ればたちまち分かる簡単な真実も、人が自分自身の眼で見ること、自分自身の頭で考えることを止めて、集団なり権威なり権力なりの目や頭になったとたんに見えなくなる。これも当然といえば当然のことだ。今後しばらくは、戦後何十年か続いた個人や自由に対する集団や国家の反動が勢いを増すであろう。いつの時代においても一国の有り様は国民の多数派の嗜好で決まる。
しかし、その反動期もそう長く続くことはあるまい。目覚めた個人の集合体である人類の意識は、大きな螺旋模様を描きながら、民族愛・国家愛などというちっぽけなものではなく、人類愛から地球愛へ更には宇宙愛へと着実に広がりつつあるように思えるからである。
このブログはなるべく政治の世界からは遠いところに置いておこうと考えていたが、最近、日本という国家の行く末がやたら気になり始めたので、思うところを少しは書いておくことにした。政治の世界は変化が激しく結果も評価しやすいから、将来、私の拙い見方が、どの程度正しかったか、どの程度まちがっていたかの判断の良い材料になるだろう。
歴史はたいがい「動と反動」を繰り返しながら進展していくもので、もう少し言うと、単純な反復運動ではなく、ある方向に向かって進む円運動、つまり螺旋(らせん)的な展開をしているのではないか・・・と私は考えているのだが、戦後60年を過ぎた昨今の日本の政治は、あまりに反動色が強くはないか。国家主義への傾斜が激しくはないか。
日本人が近代的「個人」と「自由」の表皮を知ったのが明治の時代であったとするなら、それらを骨髄にしようとしたのが戦後の時代だったと言えるだろう。殊に明治中期から昭和20年までの日本は、西欧列強に対抗し得る近代国家の建設を富国強兵に託して、個人の自由を徹底的に抑圧した。その過程が無残な戦争の繰り返しであり、その結果が決定的な敗戦・亡国である。戦後の新憲法や自由主義教育のおかげで皮膚の下にだいぶ肉が付いてきたところだが、まだ血肉となるには至っていない。
どんな人も自分以外の人間に代わって生きることも死ぬこともできず、自分の思いや行動を誰にも邪魔されたくない存在である限り、個人も自由も元々あるもので、与えられるものでも作り出されるものでも有りようがないわけだが、それをさまざまな権威や権力によって見えなくしたり押さえつけたりしてきたのが、人類の歴史であった。自然権思想が説く通りであり、日本も例外ではない。
西欧諸国は一神教がベースだから、これを神から与えられた侵すべからざる人権とか言うのだろうが、人間が造った万能の神はその製作者の欲するものは何でも製造するからあてにはならない。あらゆる存在に限りなく尊い生命が宿るという、東洋的あるいは太古的世界観や自然観をもって、人類を含めた大自然の生き物たちを観れば、個人も自由も、人間が生まれつき持ち合わせた宿命とも運命とも言えるものであることは、当然の法則的事実だということが分かる。どこの世界に、Aという生き物が風邪を引いてBという生き物がくしゃみをすることやある。どんな生物が自らの本態に生死せざるものやある。
この自然世界の実相を深く観察し了得することによって、本当の意味での他者への思いやりや慈愛が自ずと湧き出し、それが調熟して社会性・道徳性とでも言うものが大小の人間集団を満たすのであって、安定した社会道徳や規範意識などは、いい加減な国家が作るいい加減な制度などによって生み出せるものではない。ましてや現首相が唱導する「美しい国づくり」などにおいておや、である。こんなことは、ついこないだの昭和初期から終戦までにかけての歴史が明確に証明しているではないか。
少し冷静に客観的に見ればたちまち分かる簡単な真実も、人が自分自身の眼で見ること、自分自身の頭で考えることを止めて、集団なり権威なり権力なりの目や頭になったとたんに見えなくなる。これも当然といえば当然のことだ。今後しばらくは、戦後何十年か続いた個人や自由に対する集団や国家の反動が勢いを増すであろう。いつの時代においても一国の有り様は国民の多数派の嗜好で決まる。
しかし、その反動期もそう長く続くことはあるまい。目覚めた個人の集合体である人類の意識は、大きな螺旋模様を描きながら、民族愛・国家愛などというちっぽけなものではなく、人類愛から地球愛へ更には宇宙愛へと着実に広がりつつあるように思えるからである。