庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

桃の花

2007-03-26 15:02:44 | 自然
ロビンがいた頃は毎日何回も覘(のぞ)いていた自宅の庭も、冬の季節ということもあってほとんど降りてみることもなかった。昨日、久しぶりに窓越しに眺めてみたら淡いピンクの桃の花が目に飛び込んできた。この桃の木は「桃栗三年・・・」にちなんで、家を建てたときに東の隅に一本植えてみたもので、何の手入れもしていない。虫にも食われ放題で、何度か枯れかかったこともある。しかしその度に持ちこたえて、毎年花を付け、その実は多作と寡作の年を繰り返す。



今年の花の付き具合は寡作を表しているが、これはむしろ喜ばしいことで、一つの実が大きいことを意味する。多作の年は、枝がたわむくらい多くの実がなるけれども、ほとんどは虫に食われる上に、粒が小さく味も落ちる。同じ根から吸い上げる養分の分配規則に従っているわけだ。

目隠しに10本ほど並べて植えたキンモクセイは、背丈5mにもなろうとしている。淡い緑の若葉が勢いよく天に向かってる。やはり、この初春の季節は天地万物が新生の喜びにあふれているのだ。

人間は動物で、本来動きまわることを性とするから、何かの契機がないと自らの内にある植物的生命を意識することは少ない。しかし、系統発生を個体発生で繰り返すという生命進化の法則性によっても、動的な交感神経の動きの奥で静的な副交感神経の働きに支えられているという点でも、その中に植物的な性質を蔵しているのは間違いない。

つまり、人は動物であると同時に植物である、ということだ。こういう観点を持つと、例えば怪我や病気で動きを失い、外見上植物的にしか生きることを余儀なくされた人たちを見る目も根本的に変わってくるだろう。動いても動かなくても、そこには、この広大な宇宙の中で、その人一人にのみ許された尊い世界が存在する、という見方である。

ものごとは、目に見えないから形がないからといって、存在しないのでは決してない。およそ、人間にとって最も大切なものは最も見ることが難しいものだ。純粋な空気も水もそうではないか。愛情や思いやりという心の世界もそうではないか。だから、人間が、光の当たる目に見える世界のみの繁栄を求めて善しとする生活を続けていると、いずれ何らかの行き詰まりを迎えるざるを得なくなるのも、自然の成すところという気がするのである。