青春時代にニューエイジの波を一応経験し、今でもリチャード・バックやライアル・ワトソンを面白く読むくらいだから、いわゆるスピリチュアルな世界の話は嫌いな方ではなく、20歳前後の頃は暇に任せて幽霊の名所巡りとかUFO探しなどをよくやったものだが、私は未だかつてこれぞというものに出会ったことがない。
基本的に自己の感覚器官やある程度客観性を備えた計器類でキャッチできないものには信をおかない・・・という生き方をしている人間にとっては、特別な人にしか見えず聞こえず感じることができず、しかも他人に関することごとを縷々滔々(るるとうとう)と語る人たちが、いかにも胡散(うさん)臭く見えて仕方がないのである。
だから、うちの家人も好みの一つにしているこの人気番組も、私はめったに見ることはないのであるが、昨夜のゲストがシンクロ水泳の小谷実可子で、水との一体化とかイルカとの劇的対面の話題が出てくるということで録画しておくことにした。
美輪明宏や江原なんとかの話はこの際どうでもよろしい。小谷の話は実に興味深かった。シンクロ水泳の国際大会中に完全に水と一体となって歓喜の中で演技を終えたら10点満点が並んで優勝していたとか、奇妙な経緯でイルカと一緒に泳ぐことになったら、それまで付着していた世俗的なあれこれが全部はぎ落とされて自分の生命本来の姿を知ることができた・・・という熱い話は、美輪や江原の話を完全に圧唐オていた。
実は、極めて凡庸な私にも似たような体験があるのだ。私の場合は海水であるが、生まれも育ちも海のそばであったということもあり、小さいときから海に潜るのは夏の季節の日常だった。少し自覚的に潜水を始めたのは、J・マイヨールやJ・クストーの影響が大きいのだが、少し練習をすると10mや20mは平気で潜れるようになり、学生時代、田舎の近くの磯場に小船で出かけてはサザエ採りを夏休みの趣味にしていた時期がある。
よく覚えているのは1回だけだ。その時はサザエ採りにも飽きて、暖かい海中で縦に回ったり横に回ったりしながら遊んでいた。すると、間もなく体中が徐々に海水に溶け込んで自己の体と海水を分けていた、いつもの皮膚感覚がなくなっていくような気がした。地上世界よりもはるかに自由な感覚。まさに水と一体化したような感じで、この上なく愉快だ。海面を見上げると美しい太陽の光がキラキラと変幻自在に踊っている。ああこれが魚やイルカたちの感覚なんだな・・と直感した。彼女の話と共通するのは、いくら泳いでも疲れることがなかったということだ。まったく幸せな体験だったので今でも鮮明に覚えている。
もう一つは、大気との一体感。これもはっきり覚えているのは一回だけで、空を飛び始めて5年くらい経った頃のことだ。パラグライダーでサーマルソアリングやトップランディング(山の離陸地点に着陸すること)を覚えて、少し大きい飛びをし始めた4月、桜の季節だった。
この季節特有の幾らか激しいコンディションの中で1500m辺りまで上げ、サーマルを拾い拾い移動しているうちに、いつもの緊張感や恐賦エが完全に消えてしまった。私は元来浮ェりだから、地に足が着いてない時はたいがい心のどこかにそれらの欠片(かけら)みたいなものを抱えていて、まあそれがあるから今だに生きて飛んでいるということもあるのだけれど、その時はサーマルの上昇風に乗って、ちょっと大げさに言えば、吹き上がって来る桜吹雪に包まれながら、何の不安もなく完全に大気の運動とひとつになっていた。平日のことでもあり、広大な大空にたった一人で1時間ほど、大気に溶け込んだような奇妙な感覚でトップランしたのであるが、心底幸せな時間だった。
たしか西田哲学の用語に「主客合一」という言葉がある。人間が真理を体得するには「純粋経験」が必要であり、それは主体と客体が一体化したときに起こる。禅の世界の悟り体験などはそれであろう・・・というものだ。禅の世界に限らず、様々ないわゆる「至高体験」とか「悟脱体験」のお話の類(たぐい)にも興味深いものがあり、私なりに想い考えることも多いのであるが、たぶんそれに類する小さな体験は、どんな人間でも、ある行為に没入して我れを忘れた時には、いつでもどこでも起こり得るものなのかもしれない。
それが自己の人生観や世界観などを根底から覆すような強烈なものでないにしても、平凡で身近な日常の世界で、小さな努力や体験をゆっくり積み重ねていくことこそが、実は最も確実な幸福への道なのだろうと思ったりもしている。
基本的に自己の感覚器官やある程度客観性を備えた計器類でキャッチできないものには信をおかない・・・という生き方をしている人間にとっては、特別な人にしか見えず聞こえず感じることができず、しかも他人に関することごとを縷々滔々(るるとうとう)と語る人たちが、いかにも胡散(うさん)臭く見えて仕方がないのである。
だから、うちの家人も好みの一つにしているこの人気番組も、私はめったに見ることはないのであるが、昨夜のゲストがシンクロ水泳の小谷実可子で、水との一体化とかイルカとの劇的対面の話題が出てくるということで録画しておくことにした。
美輪明宏や江原なんとかの話はこの際どうでもよろしい。小谷の話は実に興味深かった。シンクロ水泳の国際大会中に完全に水と一体となって歓喜の中で演技を終えたら10点満点が並んで優勝していたとか、奇妙な経緯でイルカと一緒に泳ぐことになったら、それまで付着していた世俗的なあれこれが全部はぎ落とされて自分の生命本来の姿を知ることができた・・・という熱い話は、美輪や江原の話を完全に圧唐オていた。
実は、極めて凡庸な私にも似たような体験があるのだ。私の場合は海水であるが、生まれも育ちも海のそばであったということもあり、小さいときから海に潜るのは夏の季節の日常だった。少し自覚的に潜水を始めたのは、J・マイヨールやJ・クストーの影響が大きいのだが、少し練習をすると10mや20mは平気で潜れるようになり、学生時代、田舎の近くの磯場に小船で出かけてはサザエ採りを夏休みの趣味にしていた時期がある。
よく覚えているのは1回だけだ。その時はサザエ採りにも飽きて、暖かい海中で縦に回ったり横に回ったりしながら遊んでいた。すると、間もなく体中が徐々に海水に溶け込んで自己の体と海水を分けていた、いつもの皮膚感覚がなくなっていくような気がした。地上世界よりもはるかに自由な感覚。まさに水と一体化したような感じで、この上なく愉快だ。海面を見上げると美しい太陽の光がキラキラと変幻自在に踊っている。ああこれが魚やイルカたちの感覚なんだな・・と直感した。彼女の話と共通するのは、いくら泳いでも疲れることがなかったということだ。まったく幸せな体験だったので今でも鮮明に覚えている。
もう一つは、大気との一体感。これもはっきり覚えているのは一回だけで、空を飛び始めて5年くらい経った頃のことだ。パラグライダーでサーマルソアリングやトップランディング(山の離陸地点に着陸すること)を覚えて、少し大きい飛びをし始めた4月、桜の季節だった。
この季節特有の幾らか激しいコンディションの中で1500m辺りまで上げ、サーマルを拾い拾い移動しているうちに、いつもの緊張感や恐賦エが完全に消えてしまった。私は元来浮ェりだから、地に足が着いてない時はたいがい心のどこかにそれらの欠片(かけら)みたいなものを抱えていて、まあそれがあるから今だに生きて飛んでいるということもあるのだけれど、その時はサーマルの上昇風に乗って、ちょっと大げさに言えば、吹き上がって来る桜吹雪に包まれながら、何の不安もなく完全に大気の運動とひとつになっていた。平日のことでもあり、広大な大空にたった一人で1時間ほど、大気に溶け込んだような奇妙な感覚でトップランしたのであるが、心底幸せな時間だった。
たしか西田哲学の用語に「主客合一」という言葉がある。人間が真理を体得するには「純粋経験」が必要であり、それは主体と客体が一体化したときに起こる。禅の世界の悟り体験などはそれであろう・・・というものだ。禅の世界に限らず、様々ないわゆる「至高体験」とか「悟脱体験」のお話の類(たぐい)にも興味深いものがあり、私なりに想い考えることも多いのであるが、たぶんそれに類する小さな体験は、どんな人間でも、ある行為に没入して我れを忘れた時には、いつでもどこでも起こり得るものなのかもしれない。
それが自己の人生観や世界観などを根底から覆すような強烈なものでないにしても、平凡で身近な日常の世界で、小さな努力や体験をゆっくり積み重ねていくことこそが、実は最も確実な幸福への道なのだろうと思ったりもしている。