今日はくじら教室。先日、俺のSNSの中での情報から何か俳句のネタを見つけたらしく、そんな話から始まったんだけれど、実はこう言う些細な事は別に不思議な事では無くて、偶然では無く必然だと思うのね。それは最近のブログの心持ちみたいな話で感じては貰ったようなんだけれど・・・。
そもそも俳句もオリジナルだから、常に考えていると思うのね。ネタ何か無いかな?ってね。その時に人それぞれのスタートがあるとは思うんだけれど、
例えば単純に音楽なら、作詞からなのか?作曲なのか?で方法は変わって来る。要するに作詞から入れば、その趣旨の内容によって詩が決まる。
そんな考え方と、ノリ・・・つまり楽器などを奏でたり、テンポやリズムの早さだったりしてそこから、寂しくなったり、楽しくなったり・・・ってその気分にあった作詞を後から乗せるって感じに作るなんて最低2つの方法があると思われるのね。
これが食事の支度だったとしたら?例えば、例えば今日はカレーとお題を決めて作ろう・・・と思えば、決まったお題に沿って食材を買いに行く。これが逆に冷蔵庫の中身からスタートして、これなら・・・ん・・・じゃこんなのが出来る・・・と食材からお題を決めるみたいな発想がある。
こんな事が作るって言う単純な考え方だと思うんだけれど、もっともっとベテランになって来ると、こう言う事を何年も何十年も繰り返す事になるのね。例えば、くじらのように俳句を例にすると、17文字の句を考えるに当たって、どんな事を繰り返して来たか?・・・と想像するに、
まずは何かのきっかけがあって、やって見よう・・・と教わる場所などに入会したり、身内にやっている人がいたり、友達だったり、クラブだったり、何しろ1句作るから始まっただろうね。最初は単純に説明を受ければお題となるが、好きなモチーフを決めれば、いくらでもあるのね・・・。
だってまだ何も使っていないのだから。じゃ例えばくじらの好きな金魚なんてモチーフを選んだとする。はい、そこで季語が夏になった。だから、夏にちなんだ想像をして行くと、連想ゲームのように色々浮かんで来る。こんな繰り返しをしたとして、17文字・・・一体1日何個作るのだろうか?
ここなのね。例えばモザイクだとすると17文字・・・恐らくコースターみたいなものだとして、それを1日何個作れるか?となると、きっと始めたばかりの頃は、やり方さえ教われば、色んな事が浮かんで、沢山作れるだろうね・・・きっと。けれど、上手くなればなるほど、きっと1個になると思うのね。
要するに最初は何もやっていなかったのだから、新品・・・って感じの心で作るから、あれもこれもと出来た事だけで楽しい。けれど、普通は作れば作るほど物は増える。増えれば増えるほど物はかさばる。だからこそ、質にこだわるようになり、当然その考え方は、心持ち1つで変わる。
じゃ俳句は?多分一生作り続けても、ノートで何冊になるのだろうか?多分パソコンに落とせば、何もかさばる事は無いだろう。つまりいくらでも作れる事になる。じゃかさばるモノ作りとは考え方が違うって事になる。しかも17文字。短く1個完結だから、コースターやら4コマ漫画や、短編小説、100M走。
みたいな感じであって、反対側にあるものが、大作、全100巻やら、ハードカバーの上下巻やら、マラソン・・・みたいな感じだとして、前者の方は数が出来ちゃうし、後者は数はそうそう作れない。前者は繰り返すと、ありとあらゆるモチーフに手が出るのね。しかもオリジナルでしょ?しかも何個も作れる・・・。
更に言えば、いついかなる時も完成しちゃうのね。だってモザイクなら構想は何処でも出来ても、メモは出来ても制作は自宅に帰ってから。けれど俳句は通勤の中で完成させる事も、トイレの中でも、昼食の最中でも1作完結させる事が出来る。だから俳句漬けにするつもりならいくらでも・・・。
問題はここ。そうしてしまうと、追われるように作り続ける事になる。これが毎日の食事作りみたいな感覚。。例えばこれが、プレゼントだったり、誰かを招いての食事作りだったり、刺激的な場合、緊張感があったりする・・・それが俳句は自分の為に作る事になる。
要するにこれが家族だったり、第三者だったりの目的の食事作りだとすると、気分としては、家族なら日常だから、緊張感は緩む。一生分の1回なら、まっ良いか・・・みたいな事もあるだろう。これはプロ野球やサッカーみたいな全勝しなくても優勝が出来るものの感覚。、き
それがコースターのような感覚だとして、これが第三者を招いた食事・・・これは非日常。つまりプレゼント感覚。これはこの日だけは頑張るって感じになるから、当然失敗が許されない・・・つまりトーナメント的感覚。1回きり。こうやって人は感覚ってもので考え方が変わったりする。
じゃ自分だけの為の場合は?・・・つまり今の2つとも違う感覚。ここをまっ良いか・・・とすれば、どんどんと適当になる事もあるだろうが、もしSNSに毎日アップとなれば、緊張感も出る。要するに発表するって事が刺激になるから。こんな事があっての何十年もの繰り返しがベテランなのね。
しかもくじらの分野は俳句。何百年もの歴史があるから、もうありとあらゆるテーマがありとあらゆる俳人によって、読まれてしまっている。
山ほどね。手軽な分だけ山ほどね。これが同じ歴史があっても、落語なら落語家の数が俳人よりも少ないだろうから、少なくなるだろうが・・・。
更に歴史がある伝統的なものは、規則や決まりがあって、それが古典落語のようなものと、それを壊す新作落語・・・つまりオリジナルの時代にあった落語みたいな考え方があって、くじらは後者の新作作りの俳句らしいのね。これを何年も繰り返した事になる。
きっと山ほど作ったろうね・・・生活に溶け込むように。でもね、日常って言うのはそんなに楽しくは無いのね。ドラマチックでも無いし、刺激が無い・・・何しろ繰り返しだから。けれど、逆に刺激は緊張を生む。毎日では疲れるのね。
こんな気持ちの葛藤があったとして、問題は心持ち・・・退屈だなぁ・・・ってのと、期日に間に合わせないと・・・とか、上手く行かないなぁ・・・ってのと、おっ調子良いぞ・・・では気分が違うじゃない?けれどそれって、結果が良ければ・・・って話だと思うのね。
つまり何らかの気分が良かった1つ目があって、その余裕が楽に次に取り組めるのと、あぁ失敗しちゃったじゃん・・・次は取り戻さないと・・・と、追い込まれれば、余裕どころか緊張感やプレッシャ―が掛かってしまう。こんな繰り返しだと思うのね。
その時に毎日何か無いかな?・・・と探しているくじらが、もし慌てて走っていたとしたら?俺のSNSは見られなかっただろうし、逆にゆっくり出来たとすれば、あっこれ使える・・・・って見付けられたんじゃないかな?・・・要するにその時のくじら次第。
良く聞く話があって、人は無くして気が付く・・・なんて事がある。あるべき時は、あって当たり前だから、それを無くした時、その大事さに気が付いたりするらしい・・・ただそれが本当だとして、その考え方を自覚しているか?どうか?みたいな話に変化させて考えて見ると・・・。
優れている人達はみんなそんな事は判っていたとして、例えばWBCのような野球の世界大会に出て、さぁみんな今度は仲間だった人達と別れて、今度は全員敵同士で戦う・・・しかも1つ負けたらおしまいって戦いから、1年間の戦いを3試合中2勝1敗の繰り返しなら優勝出来るって言う戦いをする。
そんな事は誰でも判っていて、その技術を持って1年間お互いに競い合うのだけれど・・・。
それをやる選手達は全て俺の子供のような年齢の人達・・・・技術はあってもね・・・ここからはくじらにしか伝わらないと思うけれど、同じ土俵に上がったら、年齢も性別も何の役にも立たない。実力だけが全てであろう・・・がしかし、若い奴には若さがある。しかし、それだけでは無い。
あるって事は無いものがあり、無いって事はある。無いものねだりとは?そう言うものである。若い奴らに若さがあるのなら?奴らに無いものを見つけられるか?・・・まぁ、それに近いものが、女の人に母性があるのなら、男の人にそれに匹敵するものってなんだろう?・・・
昔は良くそんな事を考えてたのね・・・・いずれにせよ、技術って言うのはある程度の時間の繰り返しが必要。だから今のくじらの俳句はそんな繰り返しをしたんだから、実力やテクニックはある程度付いているはず。だとしたら、常に心持ち。いついかなる時もいつも通りの心でいるように。
慌てたり、焦ったりせず、常に落ち着いていたとしたら・・・。気づく事が出来るかどうか?になると思うのね。ひらめきだの感みたいなものは、思い付きであって、そこはテクニックやセンスなんて事とは違って、そこに気が付くか?どうか?はみんな平等だと思うのね。
そこから文章の組み立てをするのだから、そこからはテクニックやセンスは必要だろうけれど・・・・恐らくここも、ここ数日良く出て来る、感じる事なんだと思うのね・・・おごり高ぶらず、卑下せず、自分らしく・・・それにはいつもの等身大の自分・・・そんな気がするのね。
そんな事が俺からのアドバイス。
そもそも俳句もオリジナルだから、常に考えていると思うのね。ネタ何か無いかな?ってね。その時に人それぞれのスタートがあるとは思うんだけれど、
例えば単純に音楽なら、作詞からなのか?作曲なのか?で方法は変わって来る。要するに作詞から入れば、その趣旨の内容によって詩が決まる。
そんな考え方と、ノリ・・・つまり楽器などを奏でたり、テンポやリズムの早さだったりしてそこから、寂しくなったり、楽しくなったり・・・ってその気分にあった作詞を後から乗せるって感じに作るなんて最低2つの方法があると思われるのね。
これが食事の支度だったとしたら?例えば、例えば今日はカレーとお題を決めて作ろう・・・と思えば、決まったお題に沿って食材を買いに行く。これが逆に冷蔵庫の中身からスタートして、これなら・・・ん・・・じゃこんなのが出来る・・・と食材からお題を決めるみたいな発想がある。
こんな事が作るって言う単純な考え方だと思うんだけれど、もっともっとベテランになって来ると、こう言う事を何年も何十年も繰り返す事になるのね。例えば、くじらのように俳句を例にすると、17文字の句を考えるに当たって、どんな事を繰り返して来たか?・・・と想像するに、
まずは何かのきっかけがあって、やって見よう・・・と教わる場所などに入会したり、身内にやっている人がいたり、友達だったり、クラブだったり、何しろ1句作るから始まっただろうね。最初は単純に説明を受ければお題となるが、好きなモチーフを決めれば、いくらでもあるのね・・・。
だってまだ何も使っていないのだから。じゃ例えばくじらの好きな金魚なんてモチーフを選んだとする。はい、そこで季語が夏になった。だから、夏にちなんだ想像をして行くと、連想ゲームのように色々浮かんで来る。こんな繰り返しをしたとして、17文字・・・一体1日何個作るのだろうか?
ここなのね。例えばモザイクだとすると17文字・・・恐らくコースターみたいなものだとして、それを1日何個作れるか?となると、きっと始めたばかりの頃は、やり方さえ教われば、色んな事が浮かんで、沢山作れるだろうね・・・きっと。けれど、上手くなればなるほど、きっと1個になると思うのね。
要するに最初は何もやっていなかったのだから、新品・・・って感じの心で作るから、あれもこれもと出来た事だけで楽しい。けれど、普通は作れば作るほど物は増える。増えれば増えるほど物はかさばる。だからこそ、質にこだわるようになり、当然その考え方は、心持ち1つで変わる。
じゃ俳句は?多分一生作り続けても、ノートで何冊になるのだろうか?多分パソコンに落とせば、何もかさばる事は無いだろう。つまりいくらでも作れる事になる。じゃかさばるモノ作りとは考え方が違うって事になる。しかも17文字。短く1個完結だから、コースターやら4コマ漫画や、短編小説、100M走。
みたいな感じであって、反対側にあるものが、大作、全100巻やら、ハードカバーの上下巻やら、マラソン・・・みたいな感じだとして、前者の方は数が出来ちゃうし、後者は数はそうそう作れない。前者は繰り返すと、ありとあらゆるモチーフに手が出るのね。しかもオリジナルでしょ?しかも何個も作れる・・・。
更に言えば、いついかなる時も完成しちゃうのね。だってモザイクなら構想は何処でも出来ても、メモは出来ても制作は自宅に帰ってから。けれど俳句は通勤の中で完成させる事も、トイレの中でも、昼食の最中でも1作完結させる事が出来る。だから俳句漬けにするつもりならいくらでも・・・。
問題はここ。そうしてしまうと、追われるように作り続ける事になる。これが毎日の食事作りみたいな感覚。。例えばこれが、プレゼントだったり、誰かを招いての食事作りだったり、刺激的な場合、緊張感があったりする・・・それが俳句は自分の為に作る事になる。
要するにこれが家族だったり、第三者だったりの目的の食事作りだとすると、気分としては、家族なら日常だから、緊張感は緩む。一生分の1回なら、まっ良いか・・・みたいな事もあるだろう。これはプロ野球やサッカーみたいな全勝しなくても優勝が出来るものの感覚。、き
それがコースターのような感覚だとして、これが第三者を招いた食事・・・これは非日常。つまりプレゼント感覚。これはこの日だけは頑張るって感じになるから、当然失敗が許されない・・・つまりトーナメント的感覚。1回きり。こうやって人は感覚ってもので考え方が変わったりする。
じゃ自分だけの為の場合は?・・・つまり今の2つとも違う感覚。ここをまっ良いか・・・とすれば、どんどんと適当になる事もあるだろうが、もしSNSに毎日アップとなれば、緊張感も出る。要するに発表するって事が刺激になるから。こんな事があっての何十年もの繰り返しがベテランなのね。
しかもくじらの分野は俳句。何百年もの歴史があるから、もうありとあらゆるテーマがありとあらゆる俳人によって、読まれてしまっている。
山ほどね。手軽な分だけ山ほどね。これが同じ歴史があっても、落語なら落語家の数が俳人よりも少ないだろうから、少なくなるだろうが・・・。
更に歴史がある伝統的なものは、規則や決まりがあって、それが古典落語のようなものと、それを壊す新作落語・・・つまりオリジナルの時代にあった落語みたいな考え方があって、くじらは後者の新作作りの俳句らしいのね。これを何年も繰り返した事になる。
きっと山ほど作ったろうね・・・生活に溶け込むように。でもね、日常って言うのはそんなに楽しくは無いのね。ドラマチックでも無いし、刺激が無い・・・何しろ繰り返しだから。けれど、逆に刺激は緊張を生む。毎日では疲れるのね。
こんな気持ちの葛藤があったとして、問題は心持ち・・・退屈だなぁ・・・ってのと、期日に間に合わせないと・・・とか、上手く行かないなぁ・・・ってのと、おっ調子良いぞ・・・では気分が違うじゃない?けれどそれって、結果が良ければ・・・って話だと思うのね。
つまり何らかの気分が良かった1つ目があって、その余裕が楽に次に取り組めるのと、あぁ失敗しちゃったじゃん・・・次は取り戻さないと・・・と、追い込まれれば、余裕どころか緊張感やプレッシャ―が掛かってしまう。こんな繰り返しだと思うのね。
その時に毎日何か無いかな?・・・と探しているくじらが、もし慌てて走っていたとしたら?俺のSNSは見られなかっただろうし、逆にゆっくり出来たとすれば、あっこれ使える・・・・って見付けられたんじゃないかな?・・・要するにその時のくじら次第。
良く聞く話があって、人は無くして気が付く・・・なんて事がある。あるべき時は、あって当たり前だから、それを無くした時、その大事さに気が付いたりするらしい・・・ただそれが本当だとして、その考え方を自覚しているか?どうか?みたいな話に変化させて考えて見ると・・・。
優れている人達はみんなそんな事は判っていたとして、例えばWBCのような野球の世界大会に出て、さぁみんな今度は仲間だった人達と別れて、今度は全員敵同士で戦う・・・しかも1つ負けたらおしまいって戦いから、1年間の戦いを3試合中2勝1敗の繰り返しなら優勝出来るって言う戦いをする。
そんな事は誰でも判っていて、その技術を持って1年間お互いに競い合うのだけれど・・・。
それをやる選手達は全て俺の子供のような年齢の人達・・・・技術はあってもね・・・ここからはくじらにしか伝わらないと思うけれど、同じ土俵に上がったら、年齢も性別も何の役にも立たない。実力だけが全てであろう・・・がしかし、若い奴には若さがある。しかし、それだけでは無い。
あるって事は無いものがあり、無いって事はある。無いものねだりとは?そう言うものである。若い奴らに若さがあるのなら?奴らに無いものを見つけられるか?・・・まぁ、それに近いものが、女の人に母性があるのなら、男の人にそれに匹敵するものってなんだろう?・・・
昔は良くそんな事を考えてたのね・・・・いずれにせよ、技術って言うのはある程度の時間の繰り返しが必要。だから今のくじらの俳句はそんな繰り返しをしたんだから、実力やテクニックはある程度付いているはず。だとしたら、常に心持ち。いついかなる時もいつも通りの心でいるように。
慌てたり、焦ったりせず、常に落ち着いていたとしたら・・・。気づく事が出来るかどうか?になると思うのね。ひらめきだの感みたいなものは、思い付きであって、そこはテクニックやセンスなんて事とは違って、そこに気が付くか?どうか?はみんな平等だと思うのね。
そこから文章の組み立てをするのだから、そこからはテクニックやセンスは必要だろうけれど・・・・恐らくここも、ここ数日良く出て来る、感じる事なんだと思うのね・・・おごり高ぶらず、卑下せず、自分らしく・・・それにはいつもの等身大の自分・・・そんな気がするのね。
そんな事が俺からのアドバイス。