katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

やり残した事、それは湯婆婆

2019-12-30 00:29:09 | 休み?
今日はシドさんの花台をやれる事はやってからの、アトリエのリフォームや片付け、更に看板の補修、そして今日は追加にかぐやが持って来てくれたチラシ入れも設置・・・一応今年中に終わらせたい事は終わったと思うのね。そうなると、後は私利私欲でやりたい事・・・それは湯婆婆。

これを作ったのは、まだ駆け出しの頃で、誰もいなかった頃でね、依頼作品なんか1つも無かった・・だから自由に何でも作れた。ただいくらオリジナルを作っても、ヒカルの碁のハクにしろ、湯婆婆にしろ、有名な人気アニメのキャラの威力は抜群で、ストリートの時には眼を引いた。

ただそれから少ないながら、ポツポツと生徒さんや依頼品の話も頂いたりして・・・今に至った。そうなると、中々これを作る機会が無くなったが、イベントの時に引っ張れるような移動可能になった事で、一目に触れる機会が出来た。そうなると、完成していない事が目立つ事になった。

中々作る時間が取れなかったのか?それとも逃げていたのか?ただ生活に追われていたのは事実で・・・しかし今でも楽では無いが、今までよりは多少増しな年の瀬であり、そんな中、アトリエやら看板やらをやれた・・・そしたら、後何やる?ってなったら、いの一番にこれだった。

人に寄っては、こんなもん・・・って思うだろう。もっと言い方を変えれば、依頼があるのだから、それをやるべき・・と。ただ、この時間にやらなければ、またお蔵入りになってしまう。話は飛ぶが、昔はストリートを昼間は近所の公園、夜は銀座でやっていたのね。ただひたすらタイル

を切っている所を見せるだけ・・・それも全てアトリエに人が来なかったから。人に知られたい・・・と必死だった。今はかぐやのホームページのお陰で、あの頃よりは知名度も上がって、少ないながら人に見つかるようにはなった。しかし、あの頃やっていた事を今やるべきなのでは?

と思うのね。あの頃は切るのを見せた。しかし作品の写真を見て貰ったとしても、1.2冊程度だった。けれど今ならあの頃とは違って見せる作品は多い。つまり切らなくても、これを引いて見せれば十分宣伝効果はあると・・・。更に話は離れて、去年だったかな?君の膵臓を食べたい・・・を

見た事で、いかに自分が親と向き合って来なかったか?を知った。そんな時に父が入院したのをきっかけに、携わるようになると、実はその前の年も入院していたらしく、家族で俺に隠していた事を知った。更に姪っ子に誘われて新年会に初めて顔を出すと、それは毎年行われていたらしく、

知らない事ばかりで、両親は恵まれた環境にいる事を知った。しかも俺は何もしていない中、2人の義理の兄弟は本当の親のように接していてくれて・・・昔は幸せな場所が苦手だった。幸せな場所は俺が居なくても成立すると思っていた。気を使わせる事が嫌だったし、会話するにも何も

広げられる事が無かった。それが姪っ子の、かっちゃん来なくちゃダメだからね・・・その言葉と映画から、俺は売れていない事を理由に逃げていた事に気が付かされた。もしそれが正しいのなら?湯婆婆も同じで、これをやる時間が無くなったとか、そこに意味があるか?とか、依頼品が・

・・とか、色々理由を付ければ、何とでもなりそうだが、初心とは何か?と考えた時、良く判らないながら、人に知られる為に泥臭くストリートなんてやっていた・・・今それをすれば、見せるモノがある。逆にあの頃は、テレチャンの優勝とわずかな作品のみ・・・比較をすれば判るように

昔は知名度のある番組とわずかな作品、今はそれが無くても少ないながらの実績と積み重ねた作品の数・・・これを考えれば、無いものねだりみたいな話になるが、あの頃に作品の数があれば、もっと見せられたろうし、逆に今、知名度の上がる事に触れられれば・・・とね。

そもそも泥臭くって言うと、選挙活動に使われる歩いて回ったりして、1人1人と握手をするみたいな・・・感じが思い浮かんだり、流しって言うスナック廻りをしながら、1曲200円で歌わせて下さい・・・みたいな話だったり、手売りのCD販売だったり、そんな事が浮かんだりする。

その繰り返しをして、最後にレコード大賞や紅白、選挙も同じで、投票しようとした時に、無党派であると、あの時の握手した人だ・・・って、位の話でも入れてしまったりした時に、当選なんてすると、俺の入れた人みたいに思ったりして・・・。いずれにせよ、宣伝担当のかぐや

がやれない事をしないと、新しい何か?は生まれないし、かぐやがネットなら、俺は泥臭くやる・・それが俺らしい。ただね、正直昔もそうだったが、ストリートって1回目がとても気後れするのね。何しろ車から降りられない・・・びびるもんでね。恥ずかしいしね。そんな時、知り合い

になった人に電話して、今、車から降りられないんだけれど、何ビビってんだよ・・・ってののしってくんないかな?って頼んで勢い付けたりしたのね。ただこの湯婆婆を引いていた時に思い出したのね。もうあの時とは違って出来る・・・ってね。そうあの時とは違って・・・。

人は成長する。あの時は?で言うのなら、前のアトリエのリフォームの時は、みんなが手伝ってくれた。ここに来た時はすーさんが床をやってくれた。でも今回はかぐやに教えながらやった・・・はぁ?って思う人もいるだろうが、こんなどうでも良い事に成長があるのなら?本気で時間を

割いている事なら、成長は尚更。だったら上手くなって当然。けれど、上手いだけじゃダメなのね・・・タイル屋の独立の時もそう。仕事は会社とは違うから明日の仕事を取らないと、今日を働いてばかりでは、仕事は無くなる・・・つまり営業。しかし、タイル屋の営業って?何。

となると、結局あの頃から何にもして来なかった。じゃ今何をする?・・・その時に普通営業って・・と普通を言ってしまえば、それが出来るかどうか?になる。所がオリジナルを目指すとなると、普通では無くなる。タイル屋の時なら、お酒を吞んだり、ゴルフに行ったりと、人と接して

・・・なんて事があったりもした。今はそれも無い。ならそれに代わる何か?が無いと・・・ただ無くなっただけになる。勿論、当然ながら折角無いのだから、その時間は違う事に使う時間になるだけであり、しかも結局、モザイクに関わる何か?の時間なだけで、何をしても無駄にはならない。ただ無防備な戦って言うのもね・・・だから、湯婆婆って言う戦車作りとなった。

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