今日はキウイとお母さんの相席教室。まずはキウイから。絵馬が既に自宅で進めてあって、2枚終わらせる・・・って事で、予定通りに完成。これは頼まれた下地なんで、初めて登場するものなんだけれど、凝り方が尋常じゃないのと、切る事がそつなく出来る人の作品だから見事なのね。
でも、そんな事が判らない人に見せたら、あぁ可愛いぃ、私もこれやりたい・・って安易に手を出されると、まさか出来ないとは思わないと思うのね。それはまず可愛いから簡単って判断をするから。次に上手いとは言え生徒さんなんだから、私も頑張れば・・・とか、例えば倍時間を取れ
ば・・・とか、出来る前提で考えたりしてしまうのね。所がもし大作を見たら?絶対に出来ないし、こんな大きいのはいらない・・・と判断するのね。大抵こんな事を口にする人はね。突っ込み所満載で、何処から処理して良いか?判らない位ね。ただだからこそ初心者って事なんだけれどね。
まず、私もこれやりたい・・ここは良いと思うのね。感じたセリフだから、美味しいまずい、上手い下手・・・全部感想だから。そう思ったから口にしただけだから。ただ一応敬意は払っていると思っているセリフが、倍時間を取れば・・・みたいに、きっと初心者だからと未熟な分、時間
が掛かるだろうと予測したりしているんだろうね。そして更にこれが大作を見た時のセリフが、こんなの出来ないし、ウチは狭いから無理だしみたいになるんだけれど、そもそも論として、果たして出来るだろうか?と考えた時、結論として無理なのね。何故なら作る前の姿勢が・・・。
だから既に権利が無いのね。出来ないと断言するのは、これで謙虚だと思っているから。しかも全て自分中心に考えているから。出来る出来ないの判断さえも、先生にも、先人の生徒さんにも、これって私に出来ますか?の質問では無く、時間を取れば・・・とか、倍とか、何もしていない時
から、判断をしてしまう。なら教わる必要も無いし、じゃ材料と道具があれば出来るんじゃないのかな?それと頑張るってセリフ。どれ位頑張るんだろうか?だって自分で判断するのだから、頑張る時間もほぼ決まっているだろうし・・・更に、大作の時はひるんだ事に気が付かず、ここまでは
いらないし・・・と、まるで出来る前提でお断りしているセリフなのね。つまり自覚の無さが既に出来なかった時のダメージが大きい事を意味するのね。ではこんな気持ちで取り組んだとする。絶対に出来ないけれど、仮にそこそこ出来たとする。出来るとそこそこな仕上がりだとしても、
この程度出来れば、初めてだから良いんじゃない?なんて、結局また自分で答えは決める。じゃ何度かやったとする。そこそこが続くんだろうね。そうすると、もう出来るし・・・飽きたから・・・とまた次なる事に手を出すんだろうね。これが体験荒らしって俺は呼んでいるのね。
体験と言う先生のサンプルだけをやり続け、簡単と口にする一切オリジナルとしての作品を作らずに、考える事の無い人の事をね。ただ、先生もサンプル作っときゃ、準備する材料も楽だし、サンプルを作ったから、慣れによって当日失敗する事は少ないし、お互いなんだろうけどね。
では仮にこのやり取りを格式とは言わないけれど、謙虚な人に変えたとしたら?すいません、この絵馬可愛いし作って見たいんですけれど、私にも出来ますか?・・・だと思うのね。つまり先人に声を掛けるって言うのは、釣り人だとすると、お隣に入るのなら、ここ良いですか?みたいな。
つまり初心者として初めてなら、姿勢としてやりたいぃぃぃってスタート出来るのは子供さんのみ。大人としての態度があると思うのね。でもそこはスルーしても構わないと俺は思う。何故なら初心者だから。でも注意点は、倍やれば・・・なんて結果まで口にするのはどうだろうか?
初心者なのに、これでは先人に私の倍上手いんですね?と言っているようなもの。つまり言い方を変えれば、初心者の倍しか上手くないと判断した事になる。発言が下品だな・・と思う。謙虚な姿勢には思えないのに、本人は倍と口にして謙虚だと思っている・・・。思い上がりなのね。
ではこの姿勢で、自分の許容範囲の限界なんて作品に手を出したとする。何が起こるか?恐らく簡単に心が折れるし、先人の凄さを知る事になるのね。つまり初めて本当の事、事実を知る事になるのね。勿論、ここで果てしなさに気が付いたら、まだ立て直しは利くんだけれど、大抵は
この考え方の人のままでは、続かないのね。まぁここまで掘り下げないから、大抵は先生と合わないとか、分野が私に合わなかったと言うんだけれどね。このセリフさえも、もはや謙虚さは感じられない。つまり全て習う気持ちが一切無く、自分中心の考え方なんだろうね。
つまり自分に合う事を探すと言う事を続けるんだろうね・・・でもそれは、自分が思い通りになる事を探しているだけなんだけれどね。つまりお金を出せばお客・・・まぁこんな考え方なんだろうね。何処にも謙虚な姿勢の無いからなんだけれどね・・・教わる態度じゃないから。
では初めてやるのに慶應の子達が必ず結果が出るのは?当たり前なのね。何故なら誤解をする人がいるが、時間は確かに最低100時間は掛けているから・・・と時間で判断しがちだけれど、大きく違うのね。労作展に持って行きたいから・・・と目的がしっかりしているからなのね。
どうしても・・・って気持ち。だから教わりたいに繋がる。その気持ちの上に時間を乗せ、更に絶対と言う仕上げるって目標の日が決まっている・・・時間制限の中での制作なのね。だから条件が整っているからなのね。これが何と無くスタートすれば、当然何でこんな事してんのかな?
何て迷うのは当たり前なのね。その時に、どうしても・・・に繋がる何か?の気持ちが、立て直せれば、そこを抜けられれば完成に漕ぎつけられるが、それだって自分の限界に・・・って作品なのだから、それは折れる事だってある。いかにその時に気持ちを立て直せるか?なのね。
大体上手いと言われるような人は、こんな事を繰り返した人なのね。だから、気持ちを立て直せる人になったとも言えるんだろうね。でも、それを自分に合った・・を探し続ける人は、探せると良いね・・・の人なんだろうね。しかも、安全安心の作品を作り、限界にチャレンジはせず
・・・なのだから、ある意味、数を相当撃たないと当たらないだろうね。的を射るのに、当たらないから・・・と心がブレるのだから、マシンガンのようにぶちかます・・・一挙に500発みたいにね。1発で仕留めるのなら、脇を締めて、じっと待ち、狙いを定めて・・・だよね?
つまり恐らく所作のような心持ちなんだと思うのね。勿論、面倒臭いと思う人は、俺じゃ無い先生の方が良いと思うのね。きっと合っていないだろうから・・・面倒臭い事しか言わないしね。でも、もしこんなでも良いな・・・と、怖いもの見たさなんて人がいるのなら?って話。
これらの話は全部、自分を人の下にして、言いたい放題言ってた人の話だとする。ではもし、人に多少でも評価を受けて来た・・・そんな人になって、下に人が出来た人になったとする。では具体的に名前を付けると、キウイに、わぁ可愛いぃぃ、私もこれ作りたいぃぃ、倍時間やれば
作れるかな?・・・って棟梁が言ったらどう思う?何か下品な感じがしないかな?つまりもうそんな簡単にそんなセリフを言っちゃいけない人になった・・・つまり実力が付いたって事になると思うのね。では、逆にキウイがかぐやに言うだろうか?ほら有り得ない。つまり認められるって、
人になった証拠なのね。だからその人の腕、技術、そして恐らく掛かったと思われる時間、苦労が判るからなのね。そんな事を判るようになって、安いセリフは吐かないし、吐けない。だからこそ尊敬するし、敬意も払える。でも何も知らない人にそこまで求めるは厳しい。ただ、ただ
、では一体いつからダメなんだろうか?となった時、人に評価を受けるようになった時・・・なんだと思うのね。凄いだの上手いだのって言うのは、自分の力量を問うような作品を作らないと、こうした事を引き起こすのね。いつまで経っても楽しい作品ではね。ただ、実力者達には、
こんな小物作品でも、この内容を2つも・・・と判ってしまうんだろうけれど。そしてそれを自覚しているからこそ、先日の体験教室では、キウイは作らなかった・・・何故なら俺のサンプルよりも素晴らしい作品だから。こっちの方が良いに決まっているから。
そんな腕前が5個目となれば・・・
もはや何処にも体験の匂いはしない。自慢の一品になっちゃったのね。流石実力者。同じ下地でもこれだけのバリエーションで、次から次と作れるし、どれもこれも体験の人達の上を行く作品に仕上げる・・・これこそが実力。大人げないわっ・・・でも素敵なのね。
こんなもん、同じ部屋でやられたら・・・ビックリさせちゃうし、自分の作品を自画自賛しにくくなるでしょ?体験の人にご満悦で帰って貰いたいのに・・・。ただ、逆もあって、上手くなるとこんなものも作れるのかぁ?・・・って気持ちにもさせられるから、それもそれって事もある。
いずれにせよ、流石って作品なのね。その横でお母さんが・・・
R1つだからね・・・でも卑下せず楽しめちゃう。これはきちんとキウイが実力者である事を認めた上で、マイペースで自分はその横で、これ1つできちんと楽しめるのも、きちんとした心を持ってしての実力者だからなのね。意地を張ってひるまない・・・とか、平気だしとかじゃ無くて
きちんと凄さも判って、時より見ながら・・・と目の保養にもしつつ。ちなみにSはタピオカの。ほらこうして並べても、遜色ない。つまりこの下地では互角であると言う事なのね。つまり小物と言えどスペースを与えれば、こしゃくな事を出来るようになったらツワモノなのね。
でもスペースが狭くなれば、ある程度の実力を持つと、後はどれだけきちんと切ってあるか?の比較になる。それと好みの評価。それでも、目が肥えれば、あぁだの、こうだのと批評出来るようになるんだけれどね。いずれにせよ、小物とは言い難い実力者の2人の作品は、見応えがある。
そんな中、アトリエのリフォーム途中の事、そしてノアの作品の完成と見て貰ったけれど、それを見て作品もさる事ながら、その意味をキウイは判ったみたいで・・・ここに来た時は、すーさんにクッションフロア―をやって貰ったのに、今は木を1人で張っている・・・。
出来不出来はあるだろうが、自分で工夫する・・・モザイクでは無い事でも・・・つまり、これ1つ取っても、初体験であっても、やろうとする気持ちと、謙虚に大家さんやすーさんに、こうしたいんだけれど?と聞くって事をした上での結果であって、相談無しでは出来なかった・・・
つまり俺も出来ない事、初めてな事、って言う事を見せているつもりなのね・・・苦手な分野だし、初めてな事なのだから・・。ただ、モザイクだけは聞かなくても出来るけれど・・・。
でも、そんな事が判らない人に見せたら、あぁ可愛いぃ、私もこれやりたい・・って安易に手を出されると、まさか出来ないとは思わないと思うのね。それはまず可愛いから簡単って判断をするから。次に上手いとは言え生徒さんなんだから、私も頑張れば・・・とか、例えば倍時間を取れ
ば・・・とか、出来る前提で考えたりしてしまうのね。所がもし大作を見たら?絶対に出来ないし、こんな大きいのはいらない・・・と判断するのね。大抵こんな事を口にする人はね。突っ込み所満載で、何処から処理して良いか?判らない位ね。ただだからこそ初心者って事なんだけれどね。
まず、私もこれやりたい・・ここは良いと思うのね。感じたセリフだから、美味しいまずい、上手い下手・・・全部感想だから。そう思ったから口にしただけだから。ただ一応敬意は払っていると思っているセリフが、倍時間を取れば・・・みたいに、きっと初心者だからと未熟な分、時間
が掛かるだろうと予測したりしているんだろうね。そして更にこれが大作を見た時のセリフが、こんなの出来ないし、ウチは狭いから無理だしみたいになるんだけれど、そもそも論として、果たして出来るだろうか?と考えた時、結論として無理なのね。何故なら作る前の姿勢が・・・。
だから既に権利が無いのね。出来ないと断言するのは、これで謙虚だと思っているから。しかも全て自分中心に考えているから。出来る出来ないの判断さえも、先生にも、先人の生徒さんにも、これって私に出来ますか?の質問では無く、時間を取れば・・・とか、倍とか、何もしていない時
から、判断をしてしまう。なら教わる必要も無いし、じゃ材料と道具があれば出来るんじゃないのかな?それと頑張るってセリフ。どれ位頑張るんだろうか?だって自分で判断するのだから、頑張る時間もほぼ決まっているだろうし・・・更に、大作の時はひるんだ事に気が付かず、ここまでは
いらないし・・・と、まるで出来る前提でお断りしているセリフなのね。つまり自覚の無さが既に出来なかった時のダメージが大きい事を意味するのね。ではこんな気持ちで取り組んだとする。絶対に出来ないけれど、仮にそこそこ出来たとする。出来るとそこそこな仕上がりだとしても、
この程度出来れば、初めてだから良いんじゃない?なんて、結局また自分で答えは決める。じゃ何度かやったとする。そこそこが続くんだろうね。そうすると、もう出来るし・・・飽きたから・・・とまた次なる事に手を出すんだろうね。これが体験荒らしって俺は呼んでいるのね。
体験と言う先生のサンプルだけをやり続け、簡単と口にする一切オリジナルとしての作品を作らずに、考える事の無い人の事をね。ただ、先生もサンプル作っときゃ、準備する材料も楽だし、サンプルを作ったから、慣れによって当日失敗する事は少ないし、お互いなんだろうけどね。
では仮にこのやり取りを格式とは言わないけれど、謙虚な人に変えたとしたら?すいません、この絵馬可愛いし作って見たいんですけれど、私にも出来ますか?・・・だと思うのね。つまり先人に声を掛けるって言うのは、釣り人だとすると、お隣に入るのなら、ここ良いですか?みたいな。
つまり初心者として初めてなら、姿勢としてやりたいぃぃぃってスタート出来るのは子供さんのみ。大人としての態度があると思うのね。でもそこはスルーしても構わないと俺は思う。何故なら初心者だから。でも注意点は、倍やれば・・・なんて結果まで口にするのはどうだろうか?
初心者なのに、これでは先人に私の倍上手いんですね?と言っているようなもの。つまり言い方を変えれば、初心者の倍しか上手くないと判断した事になる。発言が下品だな・・と思う。謙虚な姿勢には思えないのに、本人は倍と口にして謙虚だと思っている・・・。思い上がりなのね。
ではこの姿勢で、自分の許容範囲の限界なんて作品に手を出したとする。何が起こるか?恐らく簡単に心が折れるし、先人の凄さを知る事になるのね。つまり初めて本当の事、事実を知る事になるのね。勿論、ここで果てしなさに気が付いたら、まだ立て直しは利くんだけれど、大抵は
この考え方の人のままでは、続かないのね。まぁここまで掘り下げないから、大抵は先生と合わないとか、分野が私に合わなかったと言うんだけれどね。このセリフさえも、もはや謙虚さは感じられない。つまり全て習う気持ちが一切無く、自分中心の考え方なんだろうね。
つまり自分に合う事を探すと言う事を続けるんだろうね・・・でもそれは、自分が思い通りになる事を探しているだけなんだけれどね。つまりお金を出せばお客・・・まぁこんな考え方なんだろうね。何処にも謙虚な姿勢の無いからなんだけれどね・・・教わる態度じゃないから。
では初めてやるのに慶應の子達が必ず結果が出るのは?当たり前なのね。何故なら誤解をする人がいるが、時間は確かに最低100時間は掛けているから・・・と時間で判断しがちだけれど、大きく違うのね。労作展に持って行きたいから・・・と目的がしっかりしているからなのね。
どうしても・・・って気持ち。だから教わりたいに繋がる。その気持ちの上に時間を乗せ、更に絶対と言う仕上げるって目標の日が決まっている・・・時間制限の中での制作なのね。だから条件が整っているからなのね。これが何と無くスタートすれば、当然何でこんな事してんのかな?
何て迷うのは当たり前なのね。その時に、どうしても・・・に繋がる何か?の気持ちが、立て直せれば、そこを抜けられれば完成に漕ぎつけられるが、それだって自分の限界に・・・って作品なのだから、それは折れる事だってある。いかにその時に気持ちを立て直せるか?なのね。
大体上手いと言われるような人は、こんな事を繰り返した人なのね。だから、気持ちを立て直せる人になったとも言えるんだろうね。でも、それを自分に合った・・を探し続ける人は、探せると良いね・・・の人なんだろうね。しかも、安全安心の作品を作り、限界にチャレンジはせず
・・・なのだから、ある意味、数を相当撃たないと当たらないだろうね。的を射るのに、当たらないから・・・と心がブレるのだから、マシンガンのようにぶちかます・・・一挙に500発みたいにね。1発で仕留めるのなら、脇を締めて、じっと待ち、狙いを定めて・・・だよね?
つまり恐らく所作のような心持ちなんだと思うのね。勿論、面倒臭いと思う人は、俺じゃ無い先生の方が良いと思うのね。きっと合っていないだろうから・・・面倒臭い事しか言わないしね。でも、もしこんなでも良いな・・・と、怖いもの見たさなんて人がいるのなら?って話。
これらの話は全部、自分を人の下にして、言いたい放題言ってた人の話だとする。ではもし、人に多少でも評価を受けて来た・・・そんな人になって、下に人が出来た人になったとする。では具体的に名前を付けると、キウイに、わぁ可愛いぃぃ、私もこれ作りたいぃぃ、倍時間やれば
作れるかな?・・・って棟梁が言ったらどう思う?何か下品な感じがしないかな?つまりもうそんな簡単にそんなセリフを言っちゃいけない人になった・・・つまり実力が付いたって事になると思うのね。では、逆にキウイがかぐやに言うだろうか?ほら有り得ない。つまり認められるって、
人になった証拠なのね。だからその人の腕、技術、そして恐らく掛かったと思われる時間、苦労が判るからなのね。そんな事を判るようになって、安いセリフは吐かないし、吐けない。だからこそ尊敬するし、敬意も払える。でも何も知らない人にそこまで求めるは厳しい。ただ、ただ
、では一体いつからダメなんだろうか?となった時、人に評価を受けるようになった時・・・なんだと思うのね。凄いだの上手いだのって言うのは、自分の力量を問うような作品を作らないと、こうした事を引き起こすのね。いつまで経っても楽しい作品ではね。ただ、実力者達には、
こんな小物作品でも、この内容を2つも・・・と判ってしまうんだろうけれど。そしてそれを自覚しているからこそ、先日の体験教室では、キウイは作らなかった・・・何故なら俺のサンプルよりも素晴らしい作品だから。こっちの方が良いに決まっているから。
そんな腕前が5個目となれば・・・
もはや何処にも体験の匂いはしない。自慢の一品になっちゃったのね。流石実力者。同じ下地でもこれだけのバリエーションで、次から次と作れるし、どれもこれも体験の人達の上を行く作品に仕上げる・・・これこそが実力。大人げないわっ・・・でも素敵なのね。
こんなもん、同じ部屋でやられたら・・・ビックリさせちゃうし、自分の作品を自画自賛しにくくなるでしょ?体験の人にご満悦で帰って貰いたいのに・・・。ただ、逆もあって、上手くなるとこんなものも作れるのかぁ?・・・って気持ちにもさせられるから、それもそれって事もある。
いずれにせよ、流石って作品なのね。その横でお母さんが・・・
R1つだからね・・・でも卑下せず楽しめちゃう。これはきちんとキウイが実力者である事を認めた上で、マイペースで自分はその横で、これ1つできちんと楽しめるのも、きちんとした心を持ってしての実力者だからなのね。意地を張ってひるまない・・・とか、平気だしとかじゃ無くて
きちんと凄さも判って、時より見ながら・・・と目の保養にもしつつ。ちなみにSはタピオカの。ほらこうして並べても、遜色ない。つまりこの下地では互角であると言う事なのね。つまり小物と言えどスペースを与えれば、こしゃくな事を出来るようになったらツワモノなのね。
でもスペースが狭くなれば、ある程度の実力を持つと、後はどれだけきちんと切ってあるか?の比較になる。それと好みの評価。それでも、目が肥えれば、あぁだの、こうだのと批評出来るようになるんだけれどね。いずれにせよ、小物とは言い難い実力者の2人の作品は、見応えがある。
そんな中、アトリエのリフォーム途中の事、そしてノアの作品の完成と見て貰ったけれど、それを見て作品もさる事ながら、その意味をキウイは判ったみたいで・・・ここに来た時は、すーさんにクッションフロア―をやって貰ったのに、今は木を1人で張っている・・・。
出来不出来はあるだろうが、自分で工夫する・・・モザイクでは無い事でも・・・つまり、これ1つ取っても、初体験であっても、やろうとする気持ちと、謙虚に大家さんやすーさんに、こうしたいんだけれど?と聞くって事をした上での結果であって、相談無しでは出来なかった・・・
つまり俺も出来ない事、初めてな事、って言う事を見せているつもりなのね・・・苦手な分野だし、初めてな事なのだから・・。ただ、モザイクだけは聞かなくても出来るけれど・・・。