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「ゆうちゃんの旅立ち」

2019年12月29日 | 大分県
今日、用事で電話をかけた方から、
「よいお年をお迎えください。」
と言われました。
「もう何日かあるけど、もうその言葉なんやね。」
と切り返しましたが、新年になってからしか会えないだろうと思う人には、「よいお年を・・・」になるのですね。
 


昨日は、しょうへいくんの幸せの空気を感じさせてもらいました。 
 



しかし、今日は・・・。寂しさを体に感じた時間を送りました。

昼近くに西谷小学校で教えたゆうちゃんが急逝したので、お参りに行きました。


訃報を聞いたのが、葬儀の日だったので、学期末でいろんな行事もあり、見送りができませんでした。
今でも悔いが残っています。
 



一時代にせよ、家族同然に過ごしてきた子どもたちが先に逝ってしまうのは、不幸せです。
悲しくてたまりません。
 




西谷小学校は、20代の半分の6年間過ごさせてもらいました。
大切なふるさとです。




ゆうちゃんは、4年生、5年生、6年生の3年間担任をしました。



4年生の時は、一つ上の学年との複式のクラスでした。
「自然と生活を共有」しながら、いろんな体験をすることができました。
 




みんなに可愛がられながらも、地道に物事をこなしていくゆうちゃんでした。
思い出すのが、水泳と持久走大会です。





プールが川の横にあったので、体育の時間、プールから川へとよく移動をしていました。




運動があまり得意でなかったゆうちゃん。瀬のところで、渡ろうかどうしようかと迷っていました。狭い川なので、下流でうまく行かなかったときのために、受け止めるために、下流で見ていました。




腕を一生懸命に回して、横切りました。

歓声です。
それから自信がついたのか、何日か後に、数メートルしか泳げなかったゆうちゃんが努力をして、25メートルを泳げるようになりました。



今も25メートルを泳げるようになった日を克明に覚えています。
 




持久走大会も同じです。決して速くはなかったのですが、しっかりと自分のペースで、歩くことなく3キロ近くを走りぬきました。



励ますために、お母さんも伴走する場面もありました。
感動のゴールでした。みんなの記憶に残っています。
 




社会人になってから、家族でいちごの生産を営んでいきました。
いちご農家となりました。




21年の長い間、ご家族でいちご生産を営んできました。
ゆうちゃんも一人前の仕事をして、ゆうちゃんちの「いちごファン」も増えていきました。
「土づくりから、苗の成長などもみんな見てくれていたんですよ。」
とお母さん。
 




核となって、生活を支えてきたゆうちゃんの他界。
ご家族にとっても何よりゆうちゃんにとってもこの悲しみの別離は耐え難いものです。




我が子をなくす親の思いは想像することはできません。




しばらくゆうちゃんのご両親、弟のえいちゃんとゆうちゃんの思い出を語り合いました。


「車が止まっていたので、先生やろと思ってきた。」
となんちゃんとなおくんのお父さんもやってきて、西谷小学校時代の話をしていきました。
 




ゆうちゃんたちと一緒になおくんちにいって、「お父さん主催の百人一首大会」をしたことも懐かしい思い出です。
 



いろんな話をしながらも、あのにぎやかだった弟のえいちゃんも肩を落としています。
せつなさを感じました。
 




遺影から誠実なゆうちゃんとの思い出が蘇ってきました。
年度内には、閉校になった西谷小学校の校舎も取り壊されるそうです。
 




しかし、大切な人、大切なものは心にしっかりと刻んでいます。