本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。
今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、
たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。
今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、
たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。
(注) 「伝染病」と「感染症」
1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
---------------------------------------------------------
【歴史を変えたペスト】 「緑の世界史・下」 8ページ~12ページ
地中海と中東、インドと中国、そしてこれらの地域と南北アメリカ大陸との間に接触がなかった時代には、ある地域に定着した病気は多くの場合、他の地域には流行しなかった。しかし、相互の接触が始まるや病気は広がり、免疫性がなく、また抵抗力がなかった人々に致命的な影響を及ぼした。
ある地域から他の地域へ病気が広がるきざしは、地中海地域とインドや東南アジア諸国との交易路が開けたローマ帝国初期に早くも認めることができる。記録によると、紀元165年にローマ帝国では「ペスト」が大流行し、人口の急減が始まった。このときには人口の4分の1近くが死んだという。
251年にも大流行があり、その後500年の間に何度も大流行をくりかえした。
実際には、この流行はペストではなく、おそらく天然痘だった。天然痘は地中海地域では新しい病気であり、その悪性のタイプは非常に高い死亡率を示した。中国でも同様に、161年~162年と310年~312年に大流行があり、地域によっては人口の40%もの命が失われた。これも悪性の天然痘だったことはほぼ確実で、もともとインドで発生したものが地中海地域や中国に広がったものであろう。
本物のぺストも最初はインドの病気だった。
地中海地域で分かっている最初の流行は542年、インド北東部からの船にまぎれ込んだクマネズミのノミによって広がった。人々にはまったく免疫がなく、地中海全域にわたって非常に多くの死者を出した。
これが中国に伝わったのは610年で、やはりインドから船で広東港に上陸して広がり、全人口の4分の1もの命を奪った。
ハンセン病はインドや東南アジアとの交流の結果、6世紀にヨーロッパで定着するようになり、人口を左右するような主要な病気の一つとなった。13世紀には患者の隔離のために、1万9000ものハンセン病の専門病院が建設された。14世紀以降、ヨーロッパではこの病気が根絶されたが、その理由はよく分かっていない。
これらのさまざまな病気は、大発生後数世紀の間に次第に免疫が獲得され、流行が地域的なものになり、悪性のものが減って死亡率は低下していった。
東西交流が盛んになるにつれて病気がユーラシア大陸を横断して広がっていった軌跡を、14世紀のペストの歴史に見ることができる。ヨーロッパ・ロシアから中東、中国にまで版図を広げたモンゴル帝国は、1200年~1350年にかけて最盛期を迎え、中央アジアのステップや砂漠地帯を横断する貿易が始まった。
その過程で、ペストに感染し、また感染したノミを運ぶ穴居性のネズミが中国に広がっていった。中国のペストの発生は1331年に始まり、通商路を通って1346年にはクリミア半島に、さらに地中海一帯へと伝播した。その後ペストは、クマネズミと感染ノミとともに船によってヨーロッパ中に広がり、「黒死病」として知られるようになった。
ペストの病状は、まずリンパ腺、次に体の他の部分が腫れてひどく痛み、さらに高熱や嘔吐で意識を失い、3~4日のうちに死んでしまう。
死亡率はきわめて高く、とくに人から人に伝染する肺ペストの死亡率は100%だった。腺ペストも含めたペスト全体の死亡率も90%に達していた。
20世紀になって抗生物質が発見された後でも、感染者の6割以上が死亡した。
ヨーロッパの最初の大流行のときには、地域による違いはあったが、ヨーロッパの全人口の約3分の1が死亡した。
それは都市を直撃し、多くの人命を奪い、社会を崩壊させ、都市を衰退させていった。ボッカチオの『デカメロン』に登場する10人の金持ちの若い男女がフィレンツェから逃げ出したように、都市から脱出しようとした者もいて、これが国中に病気を広げることにもなった。
だが、ほとんどは家にこもっていた。他の病気と同様に医療はほとんど役に立たず、公的な処置は主に死体を埋葬し、患者を家ごと隔離しただけだった。
※自宅療養を強いられている今の日本のコロナ自宅療養発熱患者や自宅療養死亡者
も、これと似たようなことだと思いませんか?
1346年~1349年の最初の大流行の後、ペストは何世紀にもわたってひんばんに流行をくりかえした。
1347年~1536年には平均して11年ごとにヨーロッパのどこかで大流行があり、1536年~1670年にはその間隔が15年とわずかに長くなっただけだった。
17世紀のフランスだけでぺストの死亡者は約200万人に達した。とくに、1628年~1631年には、一回の流行で人口の約5%に当たる75万人が死んだ。このときには、リヨンだけで。1万5000人もの死者がでた。
「ロンドンの大疫」として知られる1665年の大流行は、アムステルダムからもたらされ、町の西部から始まって中央部に拡大した。9月には毎週6000人が死んだ。
1347年~1536年には平均して11年ごとにヨーロッパのどこかで大流行があり、1536年~1670年にはその間隔が15年とわずかに長くなっただけだった。
17世紀のフランスだけでぺストの死亡者は約200万人に達した。とくに、1628年~1631年には、一回の流行で人口の約5%に当たる75万人が死んだ。このときには、リヨンだけで。1万5000人もの死者がでた。
「ロンドンの大疫」として知られる1665年の大流行は、アムステルダムからもたらされ、町の西部から始まって中央部に拡大した。9月には毎週6000人が死んだ。
※幼児期にロンドン・ペストを経験したウィリアム・デフォーの『ロンドン・ペスト
の恐怖』(1994.7.20.小学館)を新刊当時に読みました。コロナ時代を経験中の
今、 ロビンソン・クルーソーの作者になるこの本を再読して、今後の心がまえの
糧にしようと思っています。
宮廷はオックスフォードヘと移動し、海軍本部で働いていたサミュエル・ピープスは、グリニッジとウリッジの安全地帯へ逃れた。彼は9月14日に短時間ロンドンを訪れて、自宅の近くにまでペストが迫ってきたことを知って大きなショックを受け、日記に次のように記した。
「墓地に向かう『死者の隊列』が、白昼のフアンチャーチ通りで私のすぐ側を運ばれていった。 このいまいましい病気の患者が、貸し馬車で私の側を通ってグレイス教会へ運ばれるのも目撃した。 ロンドン塔のある丘のはずれのアンジェルの酒場も閉まっていた。 ……私の船頭だった哀れなべインは、自分の子どもを埋葬し、そして彼自身も死にそうだ。 ……先日、様子を調べさせるためにダゲナムに送った助手はぺストのために死んでしまった。 私を毎日運んでくれた船頭は、金曜日の朝に私を上陸させたのを最後にまもなく病に倒れ、そして死んでしまった。 ……ルイス氏のもう一人の娘も病気になったそうだし、私の二人の召使もそそれぞれ父親を今週ペストで亡くした。 こういうことを聞くにつれ、非常に憂鬱な気分になる」
ペストは北西ヨーロッパでは17世紀後半になって勢力を弱めはじめ、西ヨーロッパでは1720年~1721年のマルセイユが最後の大流行となった。しかし、東ヨーロッパや中東ではその後も地方病として残った。 <次回につづく>
2020-05-04
2020-05-05
2020-05-06
2020-05-07
2020-05-08
2020-05-09
2020-05-10
2020-05-11