川本ちょっとメモ

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<歴史と病気・伝染病 6> 伸びる平均寿命と残された問題(貧富の差そして公衆衛生) ――『緑の世界史・下』から

2020-05-09 23:26:01 | Weblog

本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。


 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
 

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【伸びる平均寿命と残された問題(貧富の差そして公衆衛生)】
               「緑の世界史・下」 16ページ~20ページ


<伸びる平均寿命>
 定住生活以来の人間の病気のパターンで、もっとも顕著な変化は最近200年の間に起きた。人類史の大部分を通じて、子どもの半数以上は生まれて数年の間に死に、大人になるまで生き残るのは3分の1にすぎないことが多かった。

 今日の先進国では、成人になるまでに死亡する子どもは20人に1人くらいにすぎず、その多くは遺伝病か不治の疾病によるものである。

 平均寿命は6世紀には30歳~40歳くらいだったが、今日では70歳代後半にまで急激に伸びた。

 死亡率は18世紀初期から着実に減少してきた。1840年代でも、イングランドとウェールズでは、年間の死者は人口1000人当たり約20人だったが、現在ではその3分の1~4分の1ほどだ。国によって時期は異なるものの、この死亡率減少のパターンは工業国ではどこでもよく似ている。

 寿命が延びた最大の理由は、数千年にわたって人類を苦しめてきた伝染病で死ぬ人が減ったことにある。この死亡率の低下については、何が重要な原因であるかをめぐってかなりの議論がある。

 伝染病の中には、ときを経るにつれて明らかに症状の弱い型に変化したものもある。19世紀~20世紀にかけて流行した猩紅熱は明らかにこの例である。しかし、病気の方が変化しない場合も多く、それらの衰退は他の要因に説明を求めなければならない。

 医学的な知識や技術の向上、とくに予防接種の進歩もその一つの要因だ。天然痘の予防接種は中国では早くも11世紀、その数百年後にはトルコでも行われていたようだが、西ヨ-ロッパには18世紀初頭(イギリスでは1721年)まで伝えられなかった。そして、ずっと安全な牛痘の接種法(種痘)が導入されたのは1790年代であり、その技術はヨーロッパ中に普及した(イギリスでは1852年までは接種が義務化されていなかった)。

 種痘の実施で天然痘による死亡者は減ったが、その減少は死亡率の減少全体のわずか1.5%に貢献したにすぎない。他の病気に対するワクチンは19世紀末まで発明されなかった。たとえば、コレラ、腸チフス、ジフテリアのワクチンが開発されたのは1890年代である。結核に対しては、十分な効果のないワクチンですら1920年代まで作られなかった。

 こうした病気による死亡率は、ワクチンが使われるようになるはるか以前からすでに急激に減少していた。結核についていえば、効果的孝治療が確立するのは1947年にストレプトマイシンが使われるようになってからだ。しかし、それまでに結核の死亡率は一世紀前に比べて8分の1にまで下がっており、もっとも信頼のおける推定では、医学の進歩は結核の死亡率低下の3%程度貢献したにすぎないとされている。

 同じように、1930年代後半のサルファ剤などの新薬や第二次世界大戦後の抗生物質の発見も、伝染病の死亡率を引き下げた主要な要因ではなかった。アメリカでの詳細研究によれば、20世紀の医学の進歩は死亡率の減少にはほとんど貢献しておらず、たかだか全体の3.5%ほどである。

 伝染病を減少させた主要な要因は、栄養と環境の改善である。それまでは栄養状態が悪いために病気に対する抵抗性がなかったが、19世紀になるとヨーロッパでは食料の種類と量が明らかに増加し始め、これが特に子どもの死亡率をさげる重要な要因となった。

 公衆衛生対策も、感染の拡大を防止する非常に重要な要因だった。下水道が整備され上水が処理されるようになって、コレラのように飲料水から感染する消化器病が激減した。19世紀の死亡率の低下の約20%は、上下水道の改善によるものと推定される。

 住宅環境の改善で、過密で湿気が多く換気の悪い住宅が少なくなったことも、感染を予防することに大きな役割を果たした。

 多くの場合、病気の発生を著しく低下させたのは、さまざまな対策の組み合わせによるものであり、医学の進歩と感染率の低下を目的とした施策はその一部にすぎない。

 結核の場合、一般的に公衆衛生の改善や生活条件の向上とともに、その後の患者を隔離するサナトリウムの建設、公的場所で唾を吐くことの禁止、感染牛の処理などが相まって、19世紀に死亡率が劇的に減少した。

 病気の原因となる桿菌がまだ同定されていなかったにもかかわらず、最大の死亡原因だった結核の病死者は1838年~1882年の間に半減した。19世紀のイギリスで、死亡率の減少の約5分の1は、結核による死亡者の減少によるものだった。

 1908年にシカゴで始まった牛乳の低温殺菌法など、他の衛生対策が徐々に普及したことや、缶詰や冷蔵などの新技術が導入されたことも、食べ物を原因とする感染を減少させる上で役立った。こうした環境の改善が死亡率を下げるのに重要な役割を果たしたことは、ハシカにかかった子どもの死亡率が、予防接種の導入以前に、すでに1000人に1人にまで減少していたことからもわかるだろう。


<残された問題――貧富の差そして公衆衛生>
 貧困と劣悪な生活条件は、世界のいかなる地域でも、いまだに病気の最大の原因である。

 何千年にもわたって世界中に影響を与えてきた病気のパターンは、今でも第三世界の多くの地域で見ることができる。伝染病による死亡率は減ったものの、多くの人々が慢性的な栄養不足や飢餓によって抵抗力が低下しており、安全な飲み水の欠乏と衛生設備の不備がとくに子どもたちの間に腸内感染を広げている。 

 (注) 安倍政権下で進められている「上水道民営化」政策は撤回されなければいけません。すでに2018年、上水道民営化を可能にした改正水道法が成立しています。
 経営効率化、費用逓減化が計画通りに進まず困難な時期が続くときが必ず来ます。収益困難な期間が持続すれば、民間企業では負担しきれません。そのときは必ず値上げか、自治体財政で補填する事態が発生します。
 つまり民営化は、特定の受託民間企業に収益機会を提供するだけで終わるのです。すでに発生している外国の先進事例を見るべきと考えます。飲み水は命の綱で、鉄道の民営化と混同できません。

 第三世界では、5歳未満(そのうち8割は2歳未満)の子どもが毎年450万人も腸の病気で死んでいる。三世界の乳幼児死亡率は、全体として先進国の約20倍にものぼる。 

 一方、先進国でもいまだに貧富の差によって健康状態が左右されている。北アイルランドのように比較的貧しい地域の乳幼児死亡率は、アイスランドの3倍、スウェーデンの2倍である。

 乳幼児死亡率は先進国では前世紀から着実に減少してきてはいるが、社会的階層間の格差は変わっていない。 

 イギリスでは、今日でも単純肉体労働者の子どもの死亡率は知的労働者の5倍にのぼる。ほとんどの場合、病気の発生率は経済的、社会的条件と関係が深く、社会的な階層が高くなるほど発生率は低下する。

 天然痘などの病気は予防接種で病死者を減らすことに成功したが、マラリア撲滅計画などはあまり成功していないし、国際的な多大の努力にもかかわらず伝染病はいまだに大きを脅威である。多くの病気は完全になくなったわけではなく、何とか制御されている状態にすぎない。 

 たとえば、1894年に中国東北部で大発生したペストは、船にすみついていたネズミによって世界中に運ばれた。しかし、予防措置がうまくいったことで、他の地域ではぺストの大発生は抑えられた(この年の大発生で南北アメリカ大陸にも感染した動物が持ち込まれ、1940年には大陸に生息する34種の穴居性のネズミと35種のノミに感染していた)。

 1918年に出現した悪性度の高いインフルエンザ・ウィルス(※スペインかぜ)は、その後3年間にわたって世界を席巻し、1500万人~2000万人の人命を奪う結果になった。とくにヨーロッパでは、第一次世界大戦の食糧難で体が弱っていた人が多く、高い死亡率を引き起こした。

 近代社会になっても、地震のような自然災害による大規模な被害は、伝染病の発生に直結している。

 新たな伝染病はいまだに大きな脅威であり、それに対処する医学的な限界も明らかである。 

 エイズは、1980年代初期に初めて確認された病気であり、動物の集団(専門家によるとサル)から人間に感染した病気の一つの例である。ワクチンがないために急速に感染を広げ、とくにアフリカではこの病気の流行範囲を正確に特定することはほとんど不可能であり、アメリカ合衆国でも150万人が感染していると推定されている。

 過去二世紀ほどの間に、工業国では従来の伝染病による死者の減少と並行して新しい病気が台頭し、死亡原因が急激に変化してきた。高い乳幼児死亡率や伝染病による若年死が癌や循環器病に取って代わられ、これらの病気の死亡が今や工業国の死因の3分の2を占めるようになった。

 この二つの病気が著しく増加した理由は、いまでも大きな議論の的である。その理由の一つとして、伝染病が大幅に減ったために加齢によってこれらの病気にかかる人の割合が相対的に高くなったことがある。


2020-05-04
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<歴史と病気・伝染病 5> 転戦する軍隊 軍隊の過密が加速した伝染病 ――『緑の世界史・下』から

2020-05-08 04:59:49 | Weblog

本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。

 
 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
 

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【転戦する軍隊 軍隊の過密が加速した伝染病】
         「緑の世界史・下」 14ページ~16ページ

 新しい世代が免疫を穫得し、壊滅的な被害を与えた病気による死亡率が感染率の低い典型的な地方病程度にまで減少するにつれて、世界中で新しい病気の伝染による惨事はあまり見られなくなっていった。

 こうした状況のもとで、感染率と死亡率は多くの環境要因の影響を受けて大きく変動した。

 1659年~1840年の間のイギリスでは、夏の湿度が平年より1度低ければ、年間の死亡率は4%ほど減少したと推定されている。これは、バクテリアは湿度が低いと繁殖できないものが多く、人々の腸内感染率が下がるためである。しかし、乏しい食糧、過密な都市生活、飲み水の汚染、公衆衛生の欠如や不備などの要因も病気の感染率に大きな影響を与えていた。

 発疹チフスは、1490年にスペインの兵隊がキプロスから西ヨーロッパに持ち帰った。
 シラミが媒介することから考えても、本質的には過密と貧困のもたらす病気である。

 ただし、多数の死者が出たものの、発疹チフスではペストのように人口が大きく変動するような事態にはならなかった。

 軍隊の環境は非常に過密で非衛生的であり、多くの感染者を生み出しただけでなく、国中を移動しながら病気を広める役割も演じた。20世紀になるまで、ほとんどの軍隊では戦闘による死者よりも病死者の方が多かった。

 クリミア戦争(1853年~1856年)では、ロシア人に殺された兵隊の10倍ものイギリス兵が赤痢で死んだという。

 アメリカの南北戦争でも状況は同じようなものだったし、19世紀末に南アフリカで起きたボーア戦争では、イギリス兵は戦死するよりも赤痢で死ぬものが5倍も多かった。

 また、日本軍も日露戦争(1904年~1905年)のときになってようやく衛生状態が改善され、病死者が戦死者の4分の1に減ったが、それ以前は同じような状況だった。

 発疹チフスを媒介するシラミの役割が初めて明らかにされたのは1910年ごろで、その結果シラミの駆除法が確立して、第一次世界大戦の塹壕戦ではほぼ全軍隊がチフスの大発生を抑えることができた。

 第一次、第二次大戦イギリス軍でもっとも発生率の高かった病気は梅毒だった。

 19世紀初頭になっても交流や都市化の進行、劣悪な衛生状態によって、世界中に新しい伝染病が広がることがあった。人間の排泄物の混入した水を飲むことで広がるコレラは、インドのベンガル地方の風土病だったが、しばしば近接地域にも流行した。

 これが、イギリス軍によって1817年にカルカッタからインド北部に、その後東南アジアへ運ばれ、1821年にはオマーンのマスカットから東アフリカへ広がった。1826年にロシア兵の間に流行し、1831年にはバルト海沿岸に達した。

 そこから西ヨーロッパの都市に広がり、1830年代初期にはアメリカ合衆国メキシコにまで拡大した。コレラの死亡率は高く(1831年のカイロでは13%だった)、ヨーロッパに恐慌を引き起こした。

 ヨーロッパでは、給水設備と公衆衛生が遅れていたために、コレラが急激に流行し、とくに貧しい地域では著しかった。公衆衛生が徐々に改善され、19世紀も終わりになってコレラはようやく下火になった。  <次回につづく>

(2020.5.12.追加記事)
ロシア、第二次世界大戦対ドイツ戦勝式典 延期
軍事パレードリハーサル 軍に感染拡大か

2020/05/12 04:39時事通信

【モスクワ時事】新型コロナウイルスの感染者が累計20万人を超えたロシアで、プーチン政権がこだわった対ドイツ戦勝を祝う軍事パレードが感染を拡大させた疑いが浮上している。独立系メディア「プラエクト」は11日、政権が9日に実施を予定していたパレードのリハーサルに参加した士官学校学生ら少なくとも370人以上が感染していたと報じた

国内での感染拡大を受け、プーチン大統領は4月16日にパレードの延期を発表したが、ぎりぎりまで開催に固執したために感染が広がった可能性が疑われている。プラエクトは「(延期を)長く決めかね、この間に数千人もの軍関係者が感染防止措置を取らないまま、リハーサルに参加した」と批判した。

各地の軍関係者を集めたリハーサルはモスクワ郊外で3月下旬に始まった。ロシアでは3月末に全土で経済活動が制限され、4月には感染者が増加していたが、プーチン氏の延期発表までリハーサルは続いた。

ロシア国防省は4月初め「軍に感染者はいない」と発表。しかし、パレード延期が発表された4月16日、初めて軍の感染者を公表した。軍関係者の感染は以後3週間余りで約1700人に増えている。




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<歴史と病気・伝染病 4> 新大陸の悲劇、スペイン軍と伝染病上陸 ――『緑の世界史・下』から

2020-05-07 04:51:58 | Weblog


本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。

  
 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
 

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【スペイン軍と伝染病上陸、インカ・アステカ破壊 人口激減】
              「緑の世界史・下」 12ページ~14ページ
 南北アメリカ大陸は、15世紀末までユーラシアやアフリカ大陸から隔離されており、ヨーロッパが征服するまでの時期の病気についてはほとんど明らかにされていない。ユーラシアの都市と同様に、過密で不衛生な都市生活では、寄生虫や赤痢のような病気が発生しやすかったものと思われる。しかし、ユーラシアでそれまで地方病となっていた主な病気は新大陸には広がっていなかった。

 スペインの征服者は、さまざまなヨーロッパの病気をアメリカに持ち込んだ。最初の一撃は天然痘だった。

 天然痘は、アステカの首都テノチティトラン(現在のメキシコシティー)を包囲していたコルテスを支援するために送られた増援部隊によって運ばれ、

 1518年に西インド諸島のヒスパニョラ島、1520年にはメキシコに伝わった。

 ぺルーインカ帝国には1525年~1526年に伝染した。いたる所で、免疫を持っていない人々に壊滅的な打撃を与え、何百万人もが死亡した。

 天然痘の次には、
 1530年~1531年にハシカ
 1546年にチフス
 1558年~1559年にインフルエンザ
 が大流行した。

 これらの病気は、すでに天然痘の大流行で消耗していた国民をさらに何百万人も殺すことになった。スペインが征服するまでの人口は、さまざまな推定があって混乱しており、死者の正確な数は明らかになっていないが、この惨事が大変な規模であったことは間違いない。

 もっとも信頼のおける推定値によれば、スペイン征服の直前には2500万人あったアステカ帝国中央部のメキシコ盆地の人口は、16世紀中ごろには600万人に、そして17世紀に入ると約100万人にまで減少したという。

 これらのヨーロッパの病気の影響は、武力による残虐な征服とも相まって、かつて繁栄し強力だったアステカ社会とその文化を破壊してしまった。

 ヨーロッパから持ち込まれた病気が大陸各地に急速に広がるにつれて、ぺルーのインディオから北アメリカのインディアンまで、南北アメリカ各地で、社会が急激に崩壊していった。

 南北アメリカ大陸で白人に迫害された人々は、新たな病気の侵入でさらに追い打ちをかけられた。これは、この時期にアフリカとの貿易路が開かれ、奴隷貿易が始まったことと無縁ではない。

 おそらく16世紀末か17世紀初頭にマラリアが、そして1648年に黄熱病が持ち込まれるまでは、ラテンアメリカの熱帯地方の人々の健康状態はかなり良かったのに違いない。しかし、その後この二つの病気は地方病として定着し、熱帯地方の先住民や移住しようとしたヨーロッパ人の健康をむしばんだ。

 1490年代、ヨーロッパは梅毒の猛威にさらされていたが、その影響が初めて広く認識されたのは1494年にイタリアに侵入したフランス軍だった。梅毒はイタリアから大陸を横断して急速に広がった。

 1498年には、バスコ・ダ・ガマの乗組員がインドに持ち込み、1505年には中国日本でも確認された。その後、ヨーロッパの船乗りが太平洋にも伝染させた。

 梅毒の起源については議論の分かれるところである。ある専門家の説によれば、梅毒はすでにヨーロッパで地方病になっていたイチゴ腫と呼ばれる熱帯起源の伝染病の新しい型であり、性交渉によって伝染するようになったものだという。

 しかし、15世紀になると梅毒はアメリカ起源であり、アメリカへの最初の航海のときにヨーロッパの船乗りが持ち帰った病気であると信じられるようになった。確かにヨーロッパで最初に記録されたのが、クリストファー・コロンブスの最初のアメリカ航海の翌年にあたる1493年であり、しかもバルセロナが発生地だったことがアメリカ起源説を裏づけた。

 感染者の病状は恐ろしいものだったが、その人ロヘの影響は比較的小さく、すでに1600年にはもっとも悪性のものは衰退していた。 <次回へつづく>



2020-05-04
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<歴史と病気・伝染病 3> 歴史を変えたペスト ――『緑の世界史・下』から

2020-05-06 08:22:54 | Weblog


本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。


 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
 

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【歴史を変えたペスト】 「緑の世界史・下」  8ページ~12ページ 

 地中海と中東、インドと中国、そしてこれらの地域と南北アメリカ大陸との間に接触がなかった時代には、ある地域に定着した病気は多くの場合、他の地域には流行しなかった。しかし、相互の接触が始まるや病気は広がり、免疫性がなく、また抵抗力がなかった人々に致命的な影響を及ぼした。

 ある地域から他の地域へ病気が広がるきざしは、地中海地域とインドや東南アジア諸国との交易路が開けたローマ帝国初期に早くも認めることができる。記録によると、紀元165年にローマ帝国では「ペスト」が大流行し、人口の急減が始まった。このときには人口の4分の1近くが死んだという。

 251年にも大流行があり、その後500年の間に何度も大流行をくりかえした。

 実際には、この流行はペストではなく、おそらく天然痘だった。天然痘は地中海地域では新しい病気であり、その悪性のタイプは非常に高い死亡率を示した。中国でも同様に、161年~162年と310年~312年に大流行があり、地域によっては人口の40%もの命が失われた。これも悪性の天然痘だったことはほぼ確実で、もともとインドで発生したものが地中海地域や中国に広がったものであろう。

 本物のぺストも最初はインドの病気だった。

 地中海地域で分かっている最初の流行は542年、インド北東部からの船にまぎれ込んだクマネズミのノミによって広がった。人々にはまったく免疫がなく、地中海全域にわたって非常に多くの死者を出した。

 これが中国に伝わったのは610年で、やはりインドから船で広東港に上陸して広がり、全人口の4分の1もの命を奪った。

 ハンセン病はインドや東南アジアとの交流の結果、6世紀にヨーロッパで定着するようになり、人口を左右するような主要な病気の一つとなった。13世紀には患者の隔離のために、1万9000ものハンセン病の専門病院が建設された。14世紀以降、ヨーロッパではこの病気が根絶されたが、その理由はよく分かっていない。

 これらのさまざまな病気は、大発生後数世紀の間に次第に免疫が獲得され、流行が地域的なものになり、悪性のものが減って死亡率は低下していった。

 東西交流が盛んになるにつれて病気がユーラシア大陸を横断して広がっていった軌跡を、14世紀のペストの歴史に見ることができる。ヨーロッパ・ロシアから中東、中国にまで版図を広げたモンゴル帝国は、1200年~1350年にかけて最盛期を迎え、中央アジアのステップや砂漠地帯を横断する貿易が始まった。

 その過程で、ペストに感染し、また感染したノミを運ぶ穴居性のネズミが中国に広がっていった。中国のペストの発生は1331年に始まり、通商路を通って1346年にはクリミア半島に、さらに地中海一帯へと伝播した。その後ペストは、クマネズミと感染ノミとともに船によってヨーロッパ中に広がり、「黒死病」として知られるようになった。

 ペストの病状は、まずリンパ腺、次に体の他の部分が腫れてひどく痛み、さらに高熱や嘔吐で意識を失い、3~4日のうちに死んでしまう。

 死亡率はきわめて高く、とくに人から人に伝染する肺ペストの死亡率は100%だった。腺ペストも含めたペスト全体の死亡率も90%に達していた。

 20世紀になって抗生物質が発見された後でも、感染者の6割以上が死亡した。

 ヨーロッパの最初の大流行のときには、地域による違いはあったが、ヨーロッパの全人口の約3分の1が死亡した。

 それは都市を直撃し、多くの人命を奪い、社会を崩壊させ、都市を衰退させていった。ボッカチオの『デカメロン』に登場する10人の金持ちの若い男女がフィレンツェから逃げ出したように、都市から脱出しようとした者もいて、これが国中に病気を広げることにもなった。

 だが、ほとんどは家にこもっていた。他の病気と同様に医療はほとんど役に立たず、公的な処置は主に死体を埋葬し、患者を家ごと隔離しただけだった。

 ※自宅療養を強いられている今の日本のコロナ自宅療養発熱患者や自宅療養死亡者
  も、これと似たようなことだと思いませんか?
 
 1346年~1349年の最初の大流行の後、ペストは何世紀にもわたってひんばんに流行をくりかえした。

 1347年~1536年には平均して11年ごとにヨーロッパのどこかで大流行があり、1536年~1670年にはその間隔が15年とわずかに長くなっただけだった。

 17世紀のフランスだけでぺストの死亡者は約200万人に達した。とくに、1628年~1631年には、一回の流行で人口の約5%に当たる75万人が死んだ。このときには、リヨンだけで。1万5000人もの死者がでた。

ロンドンの大疫」として知られる1665年の大流行は、アムステルダムからもたらされ、町の西部から始まって中央部に拡大した。9月には毎週6000人が死んだ。

 ※幼児期にロンドン・ペストを経験したウィリアム・デフォーの『ロンドン・ペスト
  の恐怖』(1994.7.20.小学館)を新刊当時に読みました。コロナ時代を経験中の  
  今、 ロビンソン・クルーソーの作者になるこの本を再読して、今後の心がまえの
  糧にしようと思っています。
  
 宮廷はオックスフォードヘと移動し、海軍本部で働いていたサミュエル・ピープスは、グリニッジとウリッジの安全地帯へ逃れた。彼は9月14日に短時間ロンドンを訪れて、自宅の近くにまでペストが迫ってきたことを知って大きなショックを受け、日記に次のように記した。

「墓地に向かう『死者の隊列』が、白昼のフアンチャーチ通りで私のすぐ側を運ばれていった。 このいまいましい病気の患者が、貸し馬車で私の側を通ってグレイス教会へ運ばれるのも目撃した。 ロンドン塔のある丘のはずれのアンジェルの酒場も閉まっていた。 ……私の船頭だった哀れなべインは、自分の子どもを埋葬し、そして彼自身も死にそうだ。 ……先日、様子を調べさせるためにダゲナムに送った助手はぺストのために死んでしまった。 私を毎日運んでくれた船頭は、金曜日の朝に私を上陸させたのを最後にまもなく病に倒れ、そして死んでしまった。 ……ルイス氏のもう一人の娘も病気になったそうだし、私の二人の召使もそそれぞれ父親を今週ペストで亡くした。 こういうことを聞くにつれ、非常に憂鬱な気分になる」

 ペストは北西ヨーロッパでは17世紀後半になって勢力を弱めはじめ、西ヨーロッパでは1720年~1721年のマルセイユが最後の大流行となった。しかし、東ヨーロッパや中東ではその後も地方病として残った。 <次回につづく>


2020-05-04
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<歴史と病気・伝染病 2> 定住化がもたらした伝染病 ――『緑の世界史・下』から

2020-05-05 18:30:00 | Weblog

本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。


 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。
 

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【定住化がもたらした伝染病】 「緑の世界史・下」 5ページ~8ページ 

 農業の開始とともに定住社会に移行するようになって、人類はこれまで経験しなかったさまざまな病気にさらされるようになった。

 これ以後、人類は健康悪化の大問題を抱えることになる。定住社会の発達で近接して生活する人口が増え、人と人との接触の機会は以前より増し、このことが身近な環境や健康状態に甚大な影響を与えたのである。

 この結果、伝染病に感染する機会は格段に増大し、こうした伝染病の大流行が世界のほとんどの地域で複雑な社会の進化をうながす背景ともなってきた。

 人類の生活の変化に関係している病気は驚くほど多い。家畜の飼育によって人間と動物がしばしば同じ家で密接に暮らすようになると、すでに家畜が感染していたさまざまな病気にさらされるようになった。

 動物の病原菌の中には人間を新しい宿主として適応し、人体という新しい環境のもとで繁殖するものもいたし、また少し性質を変えただけで人間に特異的な病原菌となったものもいた。

 普通に見られる人間の病気の多くは、動物の病気と近縁関係にある。

 たとえば、天然痘は牛痘に大変近いし、
 ハシカは牛の別の病気である午疫や犬のジステンパーと類縁関係にある。
 結核とジフテリアも牛の病気に起源をもつ。
 インフルエンザは人と豚とに共通であり、
 普通の風邪は明らかに馬に由来する。
 ハンセン病はもともと水牛の病気だ。

 数万年にわたって動物と密接な関係を持ち続けてきたことで、
 人間は今では65種類もの病気を犬と共有し、
 同様に50種類の病気を牛と、
 46種類の病気を羊と、
 そして、42種類の病気を豚と共有している。

 こうした病気は、それぞれ異なった場所や時期に人間の病気として根を下ろし、その後は人間同士の接触を通じてゆっくりと新たな地域に広がっていった。この伝播の速さや時期によって、その影響も大きく異なる。

 とくに、家畜がいなかった南北アメリカ大陸では、
 他の大陸のように動物から病気をうつされることがなく、
 ハシカや天然痘などの伝染病は、16世紀にヨーロッパ人が持ち込むまで存在しなかった。だから、ひとたび持ち込まれるや、免疫のなかった人々に壊滅的な打撃を与えたのである。

 定住社会が発達して人口の集中が進むにつれて、ありとあらゆる新しい伝染病にさらされるようになった。人口数千人の都市に住んでいる多くの人々だけでなく、人口数百人の村でさえ排泄物処理という大きな問題を抱えていた。

 人間の排泄物が飲み水に混入しないようにできた社会は初期にはほとんどなく、大部分は同じ水路が双方の目的のために共有されていた。
   ※人間が生きていくうえで、水問題、とりわけ上水道は、電気・原油などとくら
    べて段違いに大切です。

 飲み水に混入した排泄物によって、腸内寄生虫がはびこり、コレラや赤痢などが蔓延することにもなった。

 人口が次第に増え、集落密度が高くなったこと(単にある場所での密度ではなく、メソポタミアの都市国家のようにひんばんに接触していた複数の地域全体の密度も含めて)で、多くの新たな病気がはびこる条件が整った。

 水が媒介するコレラや生物が運ぶマラリアとは異なり、
 人から人へと直接伝染するハシカ、おたふく風邪、天然痘などの病気は、
 病原菌が生き残るために一定数以上の集団が必要だ。
 ※ハシカ、おたふく風邪、天然痘はウイルス感染でコロナもウイルス感染です。

 最近の研究では、ハシカは人口約50万人以下の島では生き長らえないことが分かっているが、最初の定住地城はこの水準を超えていたと見られる。

 農業もまた、新たな病気の流行にはずみをつけた。とくに、ひどい衰弱と無力感を引き起こす住血吸虫症の拡大は、潅漑の発達によるものだ。住血吸虫は成長過程で人と巻き貝を宿主とする巧妙な生活史を営んでいる。灌漑用水路は宿主の巻き貝の大繁殖場となり、そこで働いている人々はつねに感染の危険にさらされることになった。

 住血吸虫症は、大規模灌漑網を作り上げていたメソポタミアやエジプトなどの初期の農耕社会ですでに広がっており、今日でも一億人以上が感染している。

 西アフリカでは、焼畑による森林破壊で、マラリアを媒介する蚊に絶好の環境が生まれた。その結果、農業の導入までほとんど知られていなかったマラリアが深く根を下ろしてしまった。

 中国では、黄河流域から南の長江の稲作地域へ定住地域が拡大するにつれて、マラリア、住血吸虫、デング熱などの新しい病気も広がっていった。

 インドでも同様に、最初の農耕地だったインダス川流域から高湿で雨の多いガンジス川流域へと農業が広がるにつれて、住民はマラリアなどの新しい病気に悩まされるようになった。

 定住社会の進展により、その後数千年間にわたって続くことになる病気のパターンが確立した。

 衛生設備もなく大勢が過密に暮らす都市は、病気が蔓延するきわめて不健康な場所となった。

 ヨーロッパや北アメリカでは、19世紀半ば以降まで(そして、世界の他の多くの地域では現在でも)、都市住民の死亡率が著しく高かったために、絶えず人が流入しないと人口は維持できなかった。

 新しい伝染症が流行した当初は、人々にその病気に対する抵抗力がないために多数の死者を出すのが普通だった。しかし、ときを経るにしたがって病気に対する免疫性が高まり、死者は少なくなっていった。

 古代社会ではふだんは病気にかかる人は少なかったが、ときとして子どもも含めて多数が短期間に死ぬような、悪性の伝染病が突発的に流行する歴史をくりかえした。

 確実な記録が残されていないために、どんな病気でどれだけ多くの死者を出したのかを知るのは難しい。

 現存している記録には、区別なくただ「ペスト」と記載されていることが多い。厳密には、これは六世紀までヨーロッパや中東では流行していなかった腺ペストに対して使われるべき用語である。

 記録に書かれた病状の記載はしばしば漠然としており、ときがたって病気に対する免疫が獲得されるにつれて病状が弱まるために、それが何の病気であったかを同定するのは困難になる。

 結核は紀元前3000年ごろにはすでに存在していたことが確認できる。しかし、死亡率の高い大流行のほとんどは、ハシカなど、現存する子どもの病気の中のとくに悪性のタイプだったと見られている。 <次回につづく>



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<歴史と病気・伝染病 1> 歴史とともに変わる病気 ――『緑の世界史・下』から

2020-05-04 10:11:47 | Weblog

本は、読み始めると一気に読み上げるのが本筋だとは思いますが、私の場合はもう一つの読み方もしています。それは、気になる本を買って、この本にはどんなことが書いてあるのかがわかるていどに、読み流したり、飛ばし読みしたりするだけで、次に読みたいという必要やタイミングが来るまで本棚でお休み、というものです。

今のコロナ禍に出会って、取り出した『緑の世界史』はこうして本棚で長く休んでいた本です。
    朝日選書 『緑の世界史』 上下2冊
    クライブ・ポンティング著、石 弘之 京都大学環境史研究会訳。
    1994.6.25.第1刷、2005.4.30.第5刷、

たぶん2005年か2006年ごろに買ったものと思います。「緑」とあるように、人類の活動と環境への影響といった観点に立つ歴史書で、この中に病気・伝染病に関する短い章があります。これを何回かに分けて転載紹介いたします。


 (注) 「伝染病」と「感染症」
  1999年(平成11年)まで上掲書出版当時も、明治以来の「伝染病」ということばが使われていました。1999年(平成11年)、感染症法が新しく施行されると同時に、1897年(明治30)以来の伝染病予防法が廃止されて、それ以後替わって「感染症」ということばが使われるようになりました。

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【歴史とともに変わる病気】 「緑の世界史・下」 3ページ~5ページ
 

 病気が人類に与えた深刻な影響は、歴史的に見て主に次の三つに分類することができる。

 第一は、黒死病のように死亡率のきわめて高い伝染病、14世紀中ごろのヨーロッパで大流行して、人口の3分の1から4分の1が死んだ。

 第二は、トリパノゾーマ症(睡眠病)やオンコセルカ症(河川盲目症)などのように流行地域は限られているものの、慢性的な思い衰弱を引き起こす風土病。この流行のために人間が定住できない地域もある。

 第三は、いかなる時代にあっても人類を悩ませてきた軽度の病気や不健康状態。原因のほとんどは食料不足で、被害を受けやすかったのは貧困層や最低限の生活を送っていた人たちである。こうした人々が人口の大部分を占めることも珍しくなかったが、栄養不足のために病気の克服は非常に困難だった。

 人類と環境をめぐる関係の変化こそが、病気が人類社会に及ぼす影響の程度を決めているといえる。過去1万年の間、歴史の他の分野が大きな影響を受けたのと同じ要因によって、病気の発生も幾多の変化をとげてきた。

 狩猟採集民の社会と定住社会とは病気の発生パターンが非常に異なっており、小さな移動集団から大きな定住社会に移行するにつれて、人類がこうむる病気の数と種類も変わってきた。動物の家畜化もまた、人類の病気を根本から変えてしまった。

 孤立して発展してきた地域社会が互いに接触を深めるとともに、病気の広がり方も大きく変わっていった。最初はヨーロッパと中東の間に、次にヨーロッパと極東の間に交流が始まった。さらに、ヨーロッパの拡大はアメリカや太平洋地域に著しい影響を与えた。

 最近の二世紀ほどの間に、さらにまた大きな変化が起きた。伝染病は減少したものの、新たな生活様式と食事の変化に関連した「文明病」が、主に先進工業国で重大な問題になってきたのである。

 最古の狩猟採集民たちの健康状態について分かっていることは、きわめて断片的である。しかし、集団間で大きな違いはあるものの、彼らが広範な食べ物を利用していたことで二つの有益な効果があったことが、現存の狩猟採集民の調査と考古学的な研究から明らかになっている。

 第一は、狩猟採集民の食べ物の摂取量は初期の農耕民族に優るとも劣らないもので、栄養不足におちいることはまずなかったこと。

 第二は、ビタミンやミネラルなどの欠乏症はほとんどなかったと思われることである。もっとも、現在の狩猟採集民が腸内寄生虫を持っていることは分かっており、アフリカなどでは有史以前から寄生虫が普通に見られたのかもしれない。

 しかし、人類がアフリカから温帯地方に分布を広げるにつれて、寄生虫は減ってきたと思われる。実際、現存のアメリカ合衆国ネバダ州のインディアンのように、寄生虫を持っていなかった集団が有史以前にもいたかもしれない。

 出産時の死亡や乳幼児の死亡は多かったにせよ、農業社会や初期の近代ヨーロッパを上回ることはなかっただろう。たとえば、17世紀のフランスでは、子どもの約4分の1は1歳の誕生日までに死んでいた。狩猟採集民の平均寿命は長くはなかったが、南アフリカのブッシュマンなどの狩猟採集民の研究によると、人口の1割くらいは60歳以上まで生きており、その割合は初期の農業社会と大きく変わることはない。 <次回につづく>



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