震災発生の数日後、安治川からクルーザーで神戸支局へ向かう
中継要員の交替のバスに便乗、長田区の災害現場に到着。避難所の
御蔵小学校の周りは焼け野原で、遠い昔、空襲と艦砲射撃で灰烬と
帰した浜松市街を思いだした…
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社内報の表紙のコメントです
表紙写真の左隅に写っている掲示板には
××、○○は二人とも無事です
連絡先 神戸市東大池…
と書かれています。
1995年(平成7年)1月17日、朝5時過ぎ、
私は初代のDOSパソコンでボケ防止で
新聞の一面トップ記事やコラムを
キーボードから打ち込んでいました。
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5時46分にグラグラと地震です。
今から16年前です
わが家は、長男23歳、次男22歳、三男14歳で
私は61歳でした
しばらく、様子をみていました
地震は止むことなく続いています
部屋の道具が寝ている家族の上に落ちないか
心配になってきました
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ラジオの朝番組、テレビの朝ワイド番組の
キャスターは
「スタジオが地震で揺れています…」
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わが家は上から物が落ちることもなく
かなり大きな地震は治まりました
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地震発生から数時間経って
ニュースで震源地、
神戸がえらいことになっていました
宿直の報道カメラマンが
八尾飛行場からヘリコプターで神戸に飛びました
まず、高架の高速道路がズタズタで
長田区から火の手があがっています
ヘリのカメラマンがビデオカメラで被災地の
映像を送りながら、コメントしていました
阪神間の交通網がずたずたで社員も出勤できません
泊まり込みの部員でやりくりして1日中、放送しました。
被災地の情景を、社内報の表紙に使うというので
会社のチャーター船(取材スタッフ用)で
安治川から神戸のメリケン波止場へ
行きました。
大阪から神戸へ行くのに陸路では混乱で無理でした
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カメラ=ニコン801、
レンズ=シグマ 16㍉~35㍉(ワイドズーム)
フィルム=フジ・ベルビア(リバーサル)
露出=AE