初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

露出計

2009年02月18日 19時23分04秒 | Weblog
 昔の雑誌の記事を見ると、露出計を使うなんてアマチュアならいざ知らずプロが使うなんて…という風潮でした。プロを憧れていた私も、露出計はハジかなと考えていました。

 当時の露出計の代表格はウェストンマスターで反射光式です。カメラ側から被写体の方向に空の影響に注意して少し下に向けて測ります。明るいところでは減光のフタをして、暗くなると減光のフタを開けて使います。フタの開け閉めに連動してメーターの目盛盤が切り替わる恰好の良いものでした。

 そのうち、入射光式という新しい理論の露出計が出現しました。
ノーウッドディレクター(ハリウッド)というスタイルの変わったメーターで、受光部がプラスチックのピンポン球のような形で、そこへ光を受けて露出を測ります。
反射光式露出計は、カメラ側から被写体に向けて測りましたが、入射光式は被写体の位置からカメラに向けて測ります。この理論が私にはなかなか分かりませんでした。

 カラーのリバーサルフィルムは白黒写真のように露出に幅がありません。きれいに発色させるには、露出計でシビアな露出をしなくてはなりませんでした。

 反射光式、入射光式ともに、肝心の光を受ける部分は、セレン光電池(フォトセル)でした。セレンは暗いところでは感度が低かったので、セレン光電池を別に用意して暗いところではブースターと称して増設して測りました。

 CdS(硫化カドミュウム)と新しい素子が出てきました。セレン光電池と構造と動作が違いますが、感度が良いのと、場所をとりませんので、カメラに搭載されました。次に、シリコン・フォト・ダイオートなど次々にあたらしくなりました。

 反射光式の一種ですが被写体の一部分を測るスポットメーター、瞬間に光るストロボ光を測るストロボメーターも出現しました。
 メーカーはセコニックが力を入れていましたが、ミノルタカメラが色温度計(カラーメーター)をはじめ、いろいろなメーターを作りました。

 映画技術者もプロの写真家も抵抗なく露出計を使うようになりました。



 

映画と馬

2009年02月17日 18時21分12秒 | Weblog
 西部劇でジョン・ウェインやアラン・ラッドが、騎兵隊が馬で荒野を駆け抜ける場面があります。
 時代劇でも、鞍馬天狗になった嵐寛寿郎(アラカン)が、ビストル片手に夜道を馬で疾走します。日本では引退した競馬馬を使いました。馬が走るとなるとセットでは無理で、ロケーション撮影になります。太秦から近いところの嵐山、天竜寺や藤原堤、御所などは、会社から歩かせて連れて行きました。

 話は逸れますが、黒頭巾を被ったアラカンは、本当は顔が見えないはずですが、はっきりと顔が写ってしかも柔らかい光まで当たります。傍役の悪代官は覆面で顔がわかりません。共演の悪女は“おこそ頭巾”でこれも顔がわかりません。黒頭巾を被っても主演のアラカンの顔だけがはっきりと写ります。アラカンを見ている方も別に不自然に感じません。すごいアイデアだと思います。
 
 馬が全力疾走する場面では広い場所が必要になります。
琵琶湖の近江舞子、雄松の岸や、湖北の饗庭野(あいばの)などになります。こうなると、遠いから大変です。そんな遠距離を馬を連れていくわけには行きません。
 また馬はあまり長く歩かせるとパテますので、競馬用のトラックでロケ現場まで運びます。準備万端整ってから、本番で思い切り走ってもらいます。本番がNGの場合は馬をしばらく休ませなくてはなりません。

 米国の西部劇ではロケ現場が遠く本番がNGの場合を考えて代わりの馬も用意して大変だと思います。



映画と電車

2009年02月16日 18時32分13秒 | Weblog
  私は始発の銀閣寺道駅から市電で通学していました。
出発間際にあわただしく三人の乗客がやってきました。前の席に座った人は、なんと写真家の木村伊兵衛氏と大きなギャジットバックを持った弟子二人の一行でした。近くの銀閣寺の取材の帰りかもしれません。

 当時の京都はまだ市電が健全でした。暇な時に電車の行き先を見て、その電車の終点までゆき、終点の近所を散策してまた帰ってくるということをよくやりました。それで京都市内のあちこちがわかるようになりました。未知の路線に乗る時は、運転室の横に立って、線路を見つめてどこの交差点で曲がるかが楽しみです。電車は線路以外のところは走りませんから安心でした。

 映画「夜の河」は二条城前の堀川を日本最初で狭軌の市電「チンチン電車」(通称)が走っている場面がありました。 上原謙と山本富士子の二人が入る喫茶店「イノダ本店」がこの映画ですっかり有名になりました。いまも、店の前に置かれた大きなコーヒーミルと白い壁の建物の本店は健在です。

 映画「偽れる盛装」の映画で、芸者姿の京マチ子が包丁を持った菅井一郎に京阪電車の遮断機が降りたところで追いつかれるクライマックスの舞台「団栗橋」(どんぐりばし)の踏切は、左に鴨川、右に疎水の土手の中ほどにありました。春になると、ここは桜並木のトンネルになり終点、三条駅に入る京阪電車には最高の景色でした。京阪電車も七条から地下に入り、終点は「出町柳」までになりましたが、この素晴らしい景色は無くなりました。

 京都に市電が無くなったのは交通の事情で仕方がないのでしょうが、せめて、日本最初の狭軌の「チンチン電車」は残しておいてほしかったです。
 現在、名古屋の明治村で満員の客を乗せて元気に走っています。名鉄がすっかり好きになりました。

 しばらくして、雑誌「アサヒカメラ」見ますと、口絵に木村伊兵衛氏の銀閣寺のカラー作品が出ていました。


 

 

ロケーション名所

2009年02月15日 19時39分23秒 | Weblog
 学生のころから写真を趣味にしていました。京都の真冬は比叡おろしなど大変寒いところで雪の残る化野(あだしの)の念仏寺にまいりました。細い道が続く田舎道。雪が積もった念仏寺の境内は石仏、石塔は美しかったです。写真を撮って、本堂に行き住職さんに挨拶をすると、

「こんな寒い日によくお参りくださいました」

と熱いお茶を御馳走になりました。

 数十年たって念仏寺は門前土産物店が林立して昔日の面影はもうありせん。休日の嵐山一帯は心斎橋のような賑わいになります。

 念仏寺もよくロケーションの現場になりました。近くの大覚寺や隣の広沢の池、天竜寺、テレビ映画でもよく使われています。
 嵐山から三条通りの通称、藤原堤(ふしはらつつみ)がよく使われました。ここで大名行列や東海道になります。川の方から撮りますと後ろの近代的な建物が隠れて美しい松並木が写って具合がよかったのです。まもなく舗装されて車両の往来が激しく使えなくなりました。
 嵐山の上流で保津川と清滝川の合流地点、通称「落合」では天竜川の川下りなどに使われました。
 八幡市の近くの木津川下流の木造橋、通称「流れ橋」は時代劇やテレビの時代劇でいろいろ俳優さんが歩いた超有名な場所になっています。ここも、遠景に「第二京阪」が出来て、カメラアングルに制約ができたようです。
 世界遺産になった下鴨神社、糺の森の河合神社の塀のところで立ち回りか撮られます。御室の仁和寺境内は、大名屋敷の門前になります。
 二条城の入城門や庭園もよく使われました。いずれも名所旧跡は昔から禁煙でスタッフは大変困りまりました。神社仏閣の回りにだんだん近代的なビルディングや住宅が増えて、カメラの角度が限定されてきました。以前は、俳優さんの動きにつれてフォローできたのですが、カメラを固定して建物や電信柱などが写り込むと木の枝などで隠して固定された画面の外から俳優さんはフレームインすることになって演出上の制約も多くなってきています。
   

テレビスタジオ 下

2009年02月14日 18時03分49秒 | Weblog
  映画がカラーになって困ったのは照明の問題でした。
カラーフィルムと、“スペクトラカラーメーター”(色温度計)も一緒にやってきました。カラーフィルムは色温度3200K(タングステン用)でしたから、セットで使用する照明器具のタングステン電灯の色温度も3200Kにそろえなくてはいけません。本番前にこの色温度計で助手さんが、いちいち照明器具をチェックして回りました。
 照明器具の照度の調節は白黒映画の時代は、電灯に直列に入っているディマーで調節していましたが、これを使うと色温度が狂うのでブラインドのような鎧戸のシャッターをつけてそれで調節していました。

 俳優さんのメイキャップも白黒映画では赤っぽいドーランでしたが、カラーになってマックスファクターのパンケーキなど自然なものに変わりました。

 テレビがカラーになったときは、映画の色温度と同じですが「ホワイトバランス」と言いました。スタジオ開始前にカメラをテストパターン台に向けて“ミノルタカラーメーター”で「ホワイトバランス」の調整をします。コンパクトデジタルカメラやビデオカメラでは「オートホワイトバランス」と便利になっています。

 テレビの照明器具も色温度は厳密でしたからディマーは使えませんでした。映画と同じようにシャッターを取り付けて調節していました。

 SCR素子の出現で、照明電灯の電流を制御して明るさを変えても色温度は変わらないという便利なことになりました。

 しかし、照明電灯の電流を制御すると、電流波形が乱れて、微弱な電流を扱う音声のマイクケーブルに雑音として現れました。マイクケーブルは2本の芯線にシールドを被せたケーブルでしたが、2本のケーブルをよじって4芯のツィストペアケーブルの出現で音声ケーブルの雑音対策は治まりました。

 このSCRは居間の照明の調節、日曜大工のドリルや扇風機の回転調節、蛍光灯の明るさの調節等に使われています。

 毎週一回放送の人気の連続ドラマなど、よく使う茶の間のセットなど、支障がない限り建てっ放しでスタジオにあります。休みのときセットへ行くと扮装した俳優さん達が隣の部屋から賑やかに出てくるような錯覚にとらわれました。

  


テレビスタジオ 中

2009年02月13日 18時09分06秒 | Weblog
  映画のスタジオとテレビのスタジオの大きな違いは、映画は床が地面ですが、テレビはフローリングになっていることです。

 映画の場合、小津安二郎監督の「東京物語」の居間の場面のような撮り方を、ローアングル撮影と言いますが、もっと低い位置の撮影のときは地面を掘って穴の中にカメラを沈めて撮影します。

 テレビスタジオではフローリングですからから下はありません。必要な角度を計算して、その分セットの方を高く作りました。二階の部屋を見上げて撮るようなものです。かって、芸術祭参加ドラマで、全編ローアングル風のドラマがありました。俳優さんが高い場所で演技をする不思議な雰囲気でした。
 下から見上げて撮りますと、当然、天井が写ることになります。照明器具は天井の位置から照らします。天井は必要ですし、照明器具はどうするのかと大変でした。

 オーソンウェルズの「市民ケーン」で、天井付きのセットをローアングルでしかもレンズを絞り込んでパンフォーカスにした場面がありました。現場の照明が大変でしたでしょう。

 テレビのフローリングで困ることは、庭のセットで植木を入れられないことです。映画の床は地面ですから根付きの植木は植えればよいのですが、フローリングでは根の処理に困ります。小さな植木の場合は、植木の根が見えない様にそのまま置いたり、大道具さんは大きな木の幹に枝を打ちつけて根のない大木を見事に作っていました。

テレビスタジオ 上

2009年02月12日 21時29分21秒 | Weblog
  映画は最初、活動写真と言われていました。
手回しのキャメラが輸入されて野外で活動写真が作られ始めました。やがてフィルムの感度も上がって雨天でも仕事ができるように屋内にセットを組んで、電灯(ライト)で照明しました。強力なアークライトも使われました。喜劇のギャグにされる監督はメガホンで演技指導をしながらの撮影でした。まもなく、アメリカから音声の入った俳優さんのセリフが聞こえるトーキー映画がやってきます。
 スタジオの壁を音声のために防音にして、カメラも機械音を防ぐために、キルティングの防音カバーを着せました。少し音が漏れました。ミッチェルBNCという防音の完全なキャメラもありますが、日本には輸入されませんでした。戦後、ドイツからアリフレックスが輸入されました。これには完全に防音できる装置(ブリンプ)がありました。あまり静かなのでフィルムが回り出すとキャメラの前面に赤いランプが点滅するようになっていました。映画の場合はスタジオに映像が先行しているところに、あとから音声が参加してきました。

 テレビのスタジオは、録音スタジオ(ラジオのスタジオ)に映像のカメラがあとから入ってきたといえます。映画の場合と逆になります。映画のスタジオの床は土の地面でしたが、録音スタジオは床がフローリング(リノリューム張り)です。そのフローリングの上にセットを置いてドラマを収録しました。照明器具は床に置かずに、天井から照明バトンと呼ばれる金属製の腕木にぶら下げて、バトンは天井からモーターとワイヤで吊り下げられています。スタジオのフローリングの床の上には何も置かずにカメラドリーが自由に動き回れるようになっています。

カラー映画の照明

2009年02月11日 17時39分36秒 | Weblog
  松竹の日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」と「夏子の冒険」で、日本もいよいよカラー時代になってきました。
 徐々に力をつけてきたテレビが白黒映像ですから、映画はカラー映像で優位に立とうとしていました。

 イーストマン・コダックからネガ・ポジ方式の映画用カラーフィルムが入ってきました。銀塩のカラーフィルムと同じネガフィルムですが、印画紙の代わりに映画館の映写機にかかるようにフィルムに焼きつけます。フィルムのタイプは、タングステン用で色温度3200Kでした。つまり、スタジオのセットの照明はタングステン電灯ですから、そのまま使えます。屋外のロケーションの場合は、色温度変換フィルターをかけて合わせますが、このフィルターは露出が倍になります。しかし、屋外は室内のセットに比べて明るいですから、カラー映画用のフィルムはタングステンタイプになっていました。

 当時の、カラーフィルムの感度は低かったですから、セットの照明が大変でした。
 このカラーフィルム用に電球のお化けのような大きなランプができました。
なんと電球一個20Kwです。電球も大きかったですが、その入れもの器具が大きくて天井からの滑車で釣り上げてセッティングしました。セットが大きくて広い場面を照明するときは何台もの20Kwのライトが天井にセッティングされました。

 リハーサルの時は、20Kwの半分の10Kwに落としてファンで冷却していますが、本番になると、20Kwに切り替えてファンも止めてしまいますから、セットの天井はものすごい暑さになります。

 ウォッチマン係は温度計と防火塗料を携えて、天井をいつも見回っていました。
 天井に行く照明係は上半身裸で、セットの脇に置いてある塩壺の塩をなめて水を飲んで階段を上ってゆく大変な仕事でした。  

カウント・ベイシー

2009年02月10日 18時02分35秒 | Weblog
 カウント・ベイシーを初めて聞いたのは、SP盤のベニー・グッドマンのコンボで曲目は「I found A New Baby」でした。ベイシーのピアノがポロン、ポロンとシングルトーンのような演奏でしたが、リズム感があって、印象に残っています。

 「ジャンピング・アット・ウッドサイド」「ワン・オクロック・ジャンプ」も大好きです。「エイプリル・イン・パリス」の最後の「One More Time」と声を上げてエンディングを繰り返すところは何度聞いても楽しいです。

 プレイヤーではサックスのレスター・ヤングが好きですが、アコースティック・ギターのフレディ・グリーンが大好きでした。「オール・アメリカン・リズム・セクション」の一員です。彼のギターはフレットが高くて常人にはとても扱えないそうです。ザッザッとリズムの音も大きくて、録音の悪いレコードでもよく響いていました。彼はギターソロはとりませんでした。彼のいないアルバムを聴いたことがありますが、何か足りない音色でした。

 カウント・ベイシーが亡くなって、数年の後、フレディ・グリーンがあとを追います。 フランク・フォスターが楽団を継ぐのですが、新しい楽団のピアノが饒舌でどうもしっくり行きません。

 カウント・ベイシー、デューク・エリントン、グレン・ミラーとバンドマスターがいなくなると、途端に楽団としての魅力を感じなくなるのは私だけでしょうか。

 その点、クラシックは、ベルリンフィル、ウィーンフィルなど楽団の名声は衰えることなく、新しい指揮者の登場でいつまでも魅力的なのはどうしてでしょうか。
 

ドラマの食事場面

2009年02月09日 18時20分44秒 | Weblog
 夕食の用意をしている女房が、
 「どうして、いつも食事時に、御馳走の番組があるの」
と叫びます。

 以前は、料理番組がどこの局でも花盛りで、出演の先生方の料理学校も生徒さんが大勢で賑わっていたようです。そのうち料理番組の材料費が高騰して番組の制作が難しくなり一時より下火になったことがありました。

 前は料理の作り方が主でしたが、最近の料理番組は、食べるほうにまわってきました。番組の中のコーナーで先生が料理をざっと作り上げて出演者たち一同が、
 「おいしい、おいしい」
 と食べています。

 また、旅番組でレポーターが地方の名物をおいしそうに食べるのですが、名物を口に入れた途端に

「おいしい」
「やわらかい」 
「まったりしている」

とか言います。もう一呼吸置いてから言えばもっとおいしそうに聞こえるのにと思うことがあります。もっとも、この旅番組では、三、四軒ハシゴで食事を撮りますから、レポーターも大変です…。

 テレビドラマの中で食事場面があります。食事は小道具係が小道具として用意しますが、テレビドラマでは本当に食事をとります。大勢の食事場面でセリフのある主演級の俳優さんは、セリフのことを考えてセリフの間に箸を使いますが、セリフのないその他の俳優さんは自由に食べられます。

 食事の場面のスケジュールはいつでもいいのですが、なるべく、昼食前の時間に予定を組むことにしています。食事の用意は社員食堂や近くの料理屋に注文しますが、ごはんは炊飯器に、味噌汁はジャーに入れて冷めない様にして、オカズはラップをかぶせて持ち込みます。

 映画で時代劇、現代劇の食事場面では、小道具係がセットに小道具として食事の用意はしますが、食べませんでした。最近の新しい映画の現場はどうしているのでしょうか。