僕が住んでいる中津には「如水」(じょすい)という
雅号のような奇妙な地名がある。
雅号のようなと書いたが、まさに雅号で、
福岡藩黒田家52万2千石の家祖 黒田如水(官兵衛孝高)に由来している。
中津が中央に知られるようになるのは関ヶ原の戦いの少しまえで、
豊臣秀吉が九州征伐の論功行賞で、
側近(謀将)の如水に、中津を居城とし豊前6郡12万3千石という、
それまでの彼の功にしては少なすぎる封地をあたえた。
これが都市としての中津のはじまりだった。
現在、中津市上如水とよばれているこの一帯は新洪積台地で、
高いところで海抜50メートルほどもあるらしい。
当然、水田には不向きで、如水の時代は不毛のただの原っぱだっただろう。
当時は「下毛原」(しもけばる)という、きわどい?地名だった。
中津城にいる如水が、「下毛原にあつまれ!」と号令し、
軍の集結地に使用していたらしく、
いつのころからか「如水原」(じょすいばる)とよばれるようになったと思われる。
中津には「如水小学校」という、いい雰囲気をもった名前の学校がある。
他人に寛容で、思いやりのふかい性質で、
さらに知恵のかたまりだった如水の名を冠しているってことだけでも、
まことにめでたく素晴らしい校名だと思う。
雅号のような奇妙な地名がある。
雅号のようなと書いたが、まさに雅号で、
福岡藩黒田家52万2千石の家祖 黒田如水(官兵衛孝高)に由来している。
中津が中央に知られるようになるのは関ヶ原の戦いの少しまえで、
豊臣秀吉が九州征伐の論功行賞で、
側近(謀将)の如水に、中津を居城とし豊前6郡12万3千石という、
それまでの彼の功にしては少なすぎる封地をあたえた。
これが都市としての中津のはじまりだった。
現在、中津市上如水とよばれているこの一帯は新洪積台地で、
高いところで海抜50メートルほどもあるらしい。
当然、水田には不向きで、如水の時代は不毛のただの原っぱだっただろう。
当時は「下毛原」(しもけばる)という、きわどい?地名だった。
中津城にいる如水が、「下毛原にあつまれ!」と号令し、
軍の集結地に使用していたらしく、
いつのころからか「如水原」(じょすいばる)とよばれるようになったと思われる。
中津には「如水小学校」という、いい雰囲気をもった名前の学校がある。
他人に寛容で、思いやりのふかい性質で、
さらに知恵のかたまりだった如水の名を冠しているってことだけでも、
まことにめでたく素晴らしい校名だと思う。