内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

抜書的読書法(哲学篇17)― モンテーニュ(十) 哲学的実践としての友情(2)

2015-05-21 04:54:03 | 読游摘録

 『自発的隷従論』の中で、ラ・ボエシは、友情は「聖なるもの」であるとまで言っている。友情は、誰にでも与えられるものではなく、「善良なる人たちの間」にしかあり得ず、互いに相手の価値を認め合うことの中にしか成立しないとも言っている。つまり、友情は、どこにでもありうるというわけではなく、自ずと育つものでもない。友人を持つということは、その意味で、「自然な」ことではない。
 友情を「実践する」には、それに相応しい資質・一定の知解能力・健全な理性を必要とする。モンテーニュの無二の親友であったラ・ボエシにとって、友情を求めるということは、正義・忠誠・信仰・一貫性(我慢強さ)・清廉潔白などがどういうことなのかを知っていることを必然的に意味した。
 「残酷さ、卑劣さ、不正のあるところには、友情はあり得ない」。悪しき者たちも寄り合うとしても、彼らは、互いに理解し合うのではなく、互いに怖れ合うのであり、友人同士ではなく、共謀者に過ぎない。
 当該箇所の原文を、表記を現代化した版で引用しておく(同書の末尾に近い段落にこの一節は見出だせる。全体でも数十頁の小著だから、山上浩嗣訳でもすぐに当該箇所を見つけることができるだろう)。

L’amitié, c’est un nom sacré, c’est une chose sainte. Elle ne se met jamais qu’entre gens de bien et ne se prend que par une mutuelle estime. Elle s’entretient non tant par bienfaits que par une vie vertueuse. Ce qui rend un ami assuré de l’autre, c’est la connaissance qu’il a de son intégrité ; les répondants qu’il en a, c’est son bon naturel, la foi et la constance. Il ne peut y avoir d’amitié là où est la cruauté, là où est la déloyauté, là où est l’injustice. Et, entre les méchants, quand ils s’assemblent, c’est un complot, non pas une compagnie. Ils ne s’entr’aiment pas, mais ils s’entre-craignent ; ils ne sont pas amis, mais ils sont complices (La servitude volontaire, mis en français moderne et présenté par Claude Pinganaud, Arléa, 2003, p. 46).