内的自己対話-川の畔のささめごと

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抜書的読書法(哲学篇6)― 「キリスト教的実践」の誕生と古代的「精神的実践」の衰退

2015-05-10 05:50:51 | 読游摘録

 グザヴィエ・パヴィ(Xavier Pavie)の Exercices Spirituels. Leçons de la philosophie antique の最終章である第四章は、古代ギリシア・ローマ以降、「精神的実践 exercice spirituel」がキリスト教世界にどのように導入され、それに古代哲学とは異なった位置づけが与えられ、ついにはその本来の目的がほとんど忘却されていく過程を辿り直す節から始まっている。
 この節でも、特に目新しいことが言われているわけではなく、これまでと同様、ピエール・アドとミッシェル・フーコーとに主に依拠しながら、古代から中世にかけてのキリスト教世界における古代哲学の受容とその変容を跡づけているだけなのだが、私自身のおさらいのために、要約的に抜書しておこう。
 初期キリスト教教父たちは、自身古代的「精神的実践」の教育を受けており、原始キリスト教教団から普遍的な〈教会〉形成への胎動が始まる時期に生きた彼らにとっては、教義として組織化され始めたばかりの〈キリスト教〉は、古代的な意味での一つの哲学にほかならなかった。したがって、それはまだ「精神的実践」を基礎とする日々の生活に基づいていた。
 古代末期から中世初期にかけて、キリスト教がヨーロッパに浸透していくにつれ、キリスト教は、他の哲学と区別された一つの哲学から、唯一無二の〈哲学〉へといわば「昇格」するが、ついにはそれが〈神学〉として絶対化されるとき、古代的な意味での哲学の自律性はそこで失われる。キリスト教教義が絶対化され、それがキリスト教徒たちの生活全般を支配するようになると、彼らを支配する基本的価値は、確立された権威に対する「従属・従順」になり、それが、古代哲学における「精神的実践」の目的そのものであった、人間の魂の苦悩・苦痛・不安からの「解放」とそのための「自己統御・自己支配」とに取って代わっていく。
 その結果として、その見かけの言説には古代の「精神的実践」と共通する表現を見出すことができるが、その最終目的においては、「解放」から「従属」へと転倒させられた、「キリスト教的実践」が登場する。以後、古代哲学の諸派の教説は、本来の「精神的実践」としてではなく、キリスト教にとっても有益なかぎりで、「古人の教え」として「回収」されていく。
 そして、一六世紀半ばにイグナティウス・デ・ロヨラによって Exercitia spiritualia (同書の岩波文庫版には『霊操』というタイトルが与えられている)という著書が書かれ、「精神的実践」という言葉が「キリスト教的実践」の同意語として前面に打ち出されたことで、古代哲学の生命そのものであった本来の「精神的実践」は、西洋キリスト教世界内では、その表舞台からはほとんど姿を消してしまう。それは、しかし、その息の根を止められてしまったということではない。